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新雅史「商店街はなぜ滅びるのか」

思想

商店街はなぜ滅びるのか 社会・政治・経済史から探る再生の道 (光文社新書)

商店街はなぜ滅びるのか 社会・政治・経済史から探る再生の道 (光文社新書)

 タイトルからは想像できませんが、商店街を切り口として戦後日本の経済・社会構造の変化を分析した良書です。こういう歴史的経緯を踏まえなければ、ただ単に商店街の再生などと叫んでも全く意味がないということを痛感します。

 本書ではまず、商店街は伝統的な存在ではなく、20世紀になって人為的に創られたものである、という主張がなされます。それはどういうことか?つまり、商店街は、20世紀初頭に農村から都市へ流入した人たちの受け皿として形成されたということです。都市に流入してきた人々は都市で必ずしも雇用者となったわけではなく、それ以外に零細小売商として都市自営業層を形成することになるのです。そして、この零細小売商はなかなか永続的な事業ができなかった状況の中、小売店を組織化して規模を拡大し、専門性を高めていこうということで商店街の理念が創られたのです。「横の百貨店」というフレーズが商店街の理念をよく表していますが、そこには単に零細小売店を保護するという以上に崇高な理念があったのです。

「・・・「商店街」という理念は、零細小売店を単に保護する以上の意味を持っていた。商店街の整備は、地域社会に専門店をつくりだし、かつ、地域社会の生活を支える「組織体」をつくることを意味した。それは、地域住民の新しい生活インフラの実現であった。」(p81)

 繁華街の商店街だけでなく、生活必需品を扱う「地元商店街」の必要性も説かれます。第二次大戦中には、この地元商店街というインフラの重要性の認識の下、個人事業主を存続させて適切に地域ごとに割り振るため、免許制や距離制限といった規制が設けられます。

 しかしながら、著者は、こうした戦前の商店街形成プロセスは戦後になって忘却されてしまい、しかも、そういう忘却の中で商店街が増殖するという矛盾に満ちたプロセスを辿るのです。

 戦後の日本社会においては、製造業の国際競争力を高めるという目標を掲げる一方、完全雇用を実現することも大きな目標でしたが、国際競争力を高めるためには雇用増を抑制することが必要なはずですから、本来この2つの目標は本来矛盾するはずです。しかしながら、ここに、第三次産業の保護による雇用増が模索されたのです。しかしながら、零細小売商はこうした方針に反発し、保護政策の必要性を主張します。百貨店法の復活、小売商業調整特別措置法や商店街振興組合法の制定などが、保護政策の代表例です。

 こうした中、ダイエーの中内らは、消費者に近い小売業者が価格決定権を持つべきと主張します。これは商店街の既得権を破壊することにつながります。中内のいう「バリュー主義」は、費用から物の価格を決めるコスト主義に対し、売価は消費者が求める価値を基準にして設定されるという主張です。

 しかしながら、こうした主張にもかかわらず、国の政策は零細小売業者の既得権益を奪うことはしませんでした。それは、零細小売商をはじめとする中小企業が雇用を吸収していると考えられていたからです。そこには、完全雇用という大きな目標があったわけです。

 ところが、農村から都市への労働者流入という時代は終焉していき、また都市自営業層の政治的影響力が弱まっていくと、商店街に対する見方は変わってきます。税負担面ではむしろサラリーマンの方が弱者とみなされるようにすらなります。自民党はサラリーマン層をターゲットにした施策を講じるようになり、都市勤労者家族を前提とした「日本型福祉社会論」が1979年に打ち出されます。この「日本型福祉社会論」における「社会」とは、企業と家族であり、そこには自営業や地域は含まれていません。終身雇用と専業主婦というモデルを前提とした年金制度も構築されます。

 こうした中、零細小売商は既得権益層とみなされるようになります。大店法の運用における零細小売商の振る舞いは厚顔無恥既得権益層という印象を与えることになります。

 さらに著者は、日米構造問題協議において、財政投融資制度が取り上げたことに触れ、この制度こそが商店街を根底から掘り崩し、地方を弱体化させたと断じます。つまり、日米構造協議で取り上げられたことをきっかけとして地方に財政投融資がばらまかれるようになり、中小企業向けの融資も増えます。こうして地方の道路事業が進んだことにより、これまで住宅の徒歩圏内に形成されていた消費空間が一気に郊外に広がるようになります。道路沿いに次々に造成された工業用地は塩漬け状態になり、それが苦肉の策として商業用地に転用されるようになったのです。

 また、コンビニの出現は、商店街を内部から壊すものとなります。その背景には経営の継承問題がありました。商店街は近代家族を前提として形成されていましたが、当然、事業を継承する者がいなくなり、そうなるとコンビニに事業形態を転換する者が多く出てくるようになったわけです。しかも、コンビニは、大規模小売資本と零細小売商の思惑が合致して全国に広がっていきます。

 こうして商店街の理念の形成からその崩壊の過程を踏まえた上で、著者は崩壊の原因として、商店街が恥知らずな圧力集団になったことにあると厳しく断言します。ただ、著者は商店街の存在自体を否定するものではありません。むしろ、地域社会におけるその機能を重視しています。

 では、今後、商店街をどう立て直していったらよいか?著者は「規制国家」と「給付国家」という概念と「個人」と「地域」という軸を組み合わせることにより、その処方箋を提示しようとします。つまり、1980年代以降の日本は、個人に対する規制と地域に対する規制を削り落とす一方、個人に対する給付と地域に対する給付を膨らませてきたわけですが、著者は、給付と規制のミックスを図るべきと主張します。著者は特に、地域に対する規制を重視し、地域の協同組合や社会的企業に営業権を与えるような仕組みを提案します。例えば、地域単位で協同組合が商店街の土地を所有し、意欲ある者に土地を貸し出すとともに、金融面でもバックアップする、そんな仕組みです。


 私は本書を読んで、商店街に対するもやもやした思いをかなりの程度払拭することができたように思います。商店街は地域のコミュニティの中心であるという主張も分かるし、他方で商店街の既得権益を振りかざす姿勢を肯定するのも躊躇されてしまう。そんな思いの根底には、商店街が長らく元々の理念からはずれてしまってきている、という事情があったことに気がつくことができました。

 農村から都会へ人が流れてきたときに、雇用の受け皿となったのが零細小売商であり、それを新しい生活インフラとして位置付けていこうという思想が組み合わされて商店街が構築されたにもかかわらず、実際は、そうした理念が忘れられる中で多くの商店街が造られていってしまったことに、商店街という存在の不幸があったといえます。しかも、商店街は完全雇用の受け皿として受け止められてきたがために、これまで国の多くの規制によって守られ、時代が変わっても発想を転換できない商店街が数多く残ってしまったわけです。

 商店街が再生するためには、個人の権利が強い状況を解消する必要があるでしょう。社会的な存在であるにもかかわらず、実際は事業の継承を親族にしか認めてこなかったため、歯抜けの商店街が数多く出現している現状を見ると、そうした商店主の姿勢に大きな責任があると思わざるを得ません。そうした個人の権利を弱めるためにも、著者が提唱するような、地域の協同組合等に権利を持たせる仕組みは効果的かもしれません。もちろん、個人の所有権が強い状況の中でそれは容易なことではありませんが、方向性としては正しいのではないかと感じます。

 いずれにしても、これからの商店街の在り方を考える上で、こうした商店街の理念や歴史をおさらいしておくことは必須であり、この点をきちんと整理した本書は、まちづくり関係者にとって必読の書であることは間違いありません。