映画、書評、ジャズなど

司馬遼太郎「人間の集団について ベトナムから考える」

人間の集団について―ベトナムから考える (中公文庫)

人間の集団について―ベトナムから考える (中公文庫)

 ベトナム戦争終結後のサイゴンにおいて、著者の絶妙な人間観察が冴え渡っている作品です。随分前に書かれたものですが、ベトナムに行く機会があったことから、今となって手にしてみたのですが、今のベトナム社会を考える上でも大変参考になる分析に溢れています。ベトナムの歴史から繙き、ベトナム人が置かれた立場を鋭い視線で分析しており、ベトナムに関する一級のフィールドワークとなっています。

 司馬氏はアメリカが戦争の拠り所とした反共思想やドミノ理論について鋭く批判します。

「反共というこのふしぎな思想(思想というより魔術のようなものだが)ほど、二十世紀後半の政治を混乱させてきたものはない。・・・いまとなれば信じがたいほどのことだが、ドミノ理論という、遊戯道具にたとえた子供のような防共理論が、アメリカの世界戦略を決定してゆくのである。」

 こうしたアメリカの今となれば無茶苦茶としか思えない思想によって、ベトナム社会は破壊されていくわけです。ベトナム戦争は、もともと田園都市に幸せに暮らしていたベトナム人を都市へと引きずり出し、平和な生活を乱してしまったわけです。農村では現金を見なくても暮らすことができたのに、サイゴンでは金がないと生活できない状況に追い込まれたわけです。
 南ベトナムの人たちは、外の人たちから武器を手にされ、闘うことを強いられます。司馬氏の次の言葉はとても説得力があります。

ベトナム人の不幸はそういう面で未成熟のままの段階において、そとから際限もなく武器をくれる旦那衆を引き入れてしまったことであり、さらにはベトナム領域内での三つの党派が、その武器を機能的につかうための組織をもってしまったことである。それらの組織が精妙であればあるほど、すばらしい運動力をもって旋回し、人間個々の喜怒哀楽などを圧殺してしまうものらしい。」

 司馬氏は次のようにも述べています。

「いま出現している南ベトナム国家は厄介なことに国家機能として同民族に武力攻撃をたえずおこなうという目的性をもたされた国家なのである。こんな厄介な目的性をもつ国家が地上に出現したことがかつてあったろうか。」

 さて、司馬氏は、ベトナム人の仏教観についても、大変興味深い分析をしています。ベトナム人が戦争においてなぜ強い抗戦力を発揮したのか?それは輪廻転生を信じているからだと述べています。ベトナム人は8割が仏教徒ですが、現世では運が悪かったけど、来世では何か別のものに生まれ変わって幸せになれる、という発想を持つことができるわけです。

 ベトナムの新興宗教カオダイに関する叙述も大変面白いです。カオダイ教徒は人口の3%に過ぎません。その本山はタイニンにありますが、そこには、作家のヴィクトル・ユーゴーが祀られていたり、中国の李白が祀られていたりする変わった宗教なのです。
 司馬氏によれば、カオダイ教にはまず土着信仰の要素があり、中国の道教の影響があり、儀式や建物はカトリック風であり、建物の概観にはイスラム教の装飾がある、教義にはキリスト教の思想も入っており、仏教の解脱も取り込まれている。

「要するにカオダイ教は陽気である。その陽気さは、真夏の真昼の太陽の下を、ホガラカな田舎おやじが合財袋を背負い町にむかって闊歩しているような陽気さで、ベトナム人の一面をあらわしているかもしれない。」

 司馬氏は、一連の観察から、後進国共産主義を取ることに対して理解を示していることは大変興味深い点です。いきなり資本主義を持ち込むことに対して、次のように指摘しています。

ベトナムの自前の生産社会の歴史的段階は、日本でいえば戦国時代か江戸時代初期の段階であるにすぎない。この程度の経済社会へいきなりアメリカの最新型の資本主義が正義として噛みこんできたというところにベトナムの大混乱があるのだが、これを電流であるとすれば、サイゴン政権はよほど強力な変電装置でもってこれを受けないかぎり、今後、どうにも収集のつかぬことになりそうな気がする。」

 その上で司馬氏は、次のように述べています。

「国家の体制は、その国が与えられた条件にもっともよく適うものがいい。アジアの後進地帯における共産主義というのは、すでにロシアという後進国において実験ずみのように、産業を国家が哺育するという形式としてはじつに便利なのである。」

「アジア型の共産主義というのは、西洋人がつくった文明の型へのもっとも短距離の道なのかもしれない。」「アジアの共産主義というのは、アジアの社会がはるかな過去から背負いこんでいる泥の中からひょいと足抜けをするための最も簡単な方法だということは、つねに忘れずにおきたいと思っている。」

 ベトナム共産主義を維持しながら飛躍的な発展を遂げている現在の状況から振り替えれば、司馬氏のこの指摘は当たっていたというべきかもしれません。

 今回、ホーチミンを訪問してみて、司馬氏の指摘がそのまま通用する部分が非常に多いことに気付かされました。例えば、ホーチミンのバイクの多さは当時からそうだったということが分かります。外資企業からの莫大な投資によって経済環境が変わっていく中、ベトナム人自体は基本的には変わっていないということがよく分かります。ベトナム戦争ではアメリカの都合によって振り回されていたベトナム人ですが、現在は、安い労働力を求めて進出してくる外資企業によって振り回されているといえる気がします。

 今でも読み継がれるべき著作です。