官僚制批判の論理と心理 - デモクラシーの友と敵 (2011-09-25T00:00:00.000)
- 作者: 野口雅弘
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2011/09/22
- メディア: 新書
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著者が本書で述べている内容は、結語の中の次の5つのテーゼに集約されています。
【テーゼ1】官僚制に対する批判的な情念は普遍的である
官僚制批判は近年に始まったものではなく、そのルーツは既にロマン主義の中に現れており、
「官僚制の歴史は官僚制批判の歴史といってよい。」
というのが著者の主張です。
【テーゼ2】官僚制はデモクラシーの条件でもある
これが本書における主張の柱となっていると言ってもよいかもしれません。官僚制とデモクラシーは対立関係にあるからといって単に官僚制を叩けばよいというわけではないと著者は述べています。
「官僚制とデモクラシーが対立することはたしかだが、ある程度以上の民主化には、その条件として官僚制的なものが必要となってくる。したがって一方的に民主化を唱えても、それは不毛な議論にしかならない。」
デモクラシーの時代には、不平等や格差、特権や既得権益へのネガティヴな情念が強くなり、平等で均質でムラのない標準化された取扱いが必要となることから、中央政府が強大化し、画一的な行政、すなわち官僚制が進展しがちです。つまり、
「デモクラシーは自らの内から官僚制を呼び寄せながら、しかし同時に官僚制とぶつかり、それを憎む。」
というジレンマを内包しているのです。著者は、こうした官僚制とデモクラシーの間の緊張関係やジレンマを認識していたのがウェーバーだと指摘しています。
【テーゼ3】正当性への問いは新自由主義によって絡め取られやすい
福祉国家においては、形式合理性だけでは貫徹できず、現実の官僚制は、実質的にも政策形成に関与し、政治的な性格を帯びることになります。そうなると、官僚制の正当性を形式合理性に求めることは困難になり、官僚制の存在意義が疑われざるを得ません。この点について、ハーバーマスは、後期資本主義の問題として、官僚制の正当化の危機として指摘しています。
これまでは、経済成長というパフォーマンスが維持できていたために、この危機は顕在化しませんでしたが、バブル崩壊以降、右肩上がりの経済成長が見込めなくなると、一気に顕在化することになります。
そうなると、政府は余計なことはしないほうがよいという新自由主義が説得力を持つようになってくるのは必然です。
「後期資本主義国家においては、経済へのいかなる政治介入も、市場の論理を踏みにじり、特定の人びとの既得権をつくりだし、擁護するものに見えてしまう。これを回避するには、介入をミニマムにする、つまり「小さな政府」が有効な方向性として浮かび上がってくるというわけである。」
【テーゼ4】ポスト「鉄の檻」状況において、強いリーダーシップへの要求には注意が必要である
ウェーバーは近代を脱魔術化と位置付けています。官僚制もこうした解放性を持つものですが、やがてそれは自由の喪失をもたらす「鉄の檻」と化していきます。こうした中で、ウェーバーはカリスマ的な指導者に注目するわけです。
しかしながら、今日の社会がバウマンのいう「リキッド・モダニティ」であるとすれば、官僚制を「鉄の檻」と見ることはもはや適当ではありません。
さらに、こうした観点から脱官僚を図るということは、政治的な決定作成の幅を拡げることを意味します。それは、決定内容についての説明責任を果たす重荷を抱え込むことを意味するわけですが、実際の「脱官僚」のスローガンには、多くの場合、これらの決断とそれへの説明責任への準備が含まれておらず、そうなるとハーバーマスのいう「正当性の危機」が顕在化してきてしまいます。
こうした状況においては、新自由主義的な方向性を持つ政治リーダーが有利な位置を占めるのだ、というのが著者の主張です。
「政治家には芯の通った信念が必要だという一般論的な願望が、今日の状況においては、官僚や官僚制を批判し、「小さな政府」を唱える新自由主義にきわめて有利に働くということも見逃されてはならない。」
この主張は、今日の官僚バッシングを理解する上で極めて重要です。
【テーゼ5】ウェーバーの官僚制論は今日、新自由主義への防波堤として読むことができる
ウェーバーは「鉄の檻」としての官僚制の批判者として捉えられてきましたが、著者は、今の状況下においては、ウェーバーは新自由主義に対抗する公行政とデモクラシーの理念の代弁者として読み直すべきだと述べています。
以上が本書の要旨です。
昨今の官僚制批判は辛らつを極めていますが、官僚制について、その系譜をたどりつつ様々な思想家の考え方を取り上げながら説明した本はあまりお目にかかったことがありません。そういう意味で、本書は、ウェーバーの捉え方をベースに官僚制がデモクラシーの条件であることを論じている点で傑出しています。
日本の高度成長期には官僚制批判が噴出していなかったのが、なぜバブル崩壊以降というタイミングで噴出し始めたのかも、本書を読めば良く理解できます。
ウェーバーの期待したカリスマ指導者が新自由主義者という形で出現してくる理由もはっきりと理解できます。小泉総理が新自由主義を掲げてあれほどまでに高い支持を得ることができた理由も手に取るように分かります。実際には国民が新自由主義を心の底から望んでいたわけでもないのに、あれほどの支持を集めたのは、新自由主義を掲げれば、ぶれずにスタンスを貫くことができるからです。
新自由主義を掲げずに脱官僚を目指すということは、極めて難しいことです。それだけ政治家は決定の負荷を負う覚悟がなければならないわけですが、実際には、今の政治家にはそうした覚悟があるとは到底思えません。菅総理が脱官僚を唱えながら、その政策決定に対する説明責任を負いきれなかったことが、このことを象徴していると言えるでしょう。
デモクラシーは官僚制と対峙するものの、官僚制はデモクラシーの条件である、という本書の指摘は、極めて重要です。官僚制を排除すればデモクラシーがうまく機能するというわけではありません。官僚制に対する厳しい視線は当分続くものと思われますが、官僚制を論じる上で、デモクラシーと官僚制との間の緊張関係とジレンマをきちんと認識することが必要です。
新書にしてはかなり重厚な内容ですが、官僚制について論じる上で間違いなく必読の書です。