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震災と日本人の自然観

 大地震と大津波の発生から2週間が経過しました。福島第一原発の状況が依然として予断を許さない状況にあるため、なかなか復興に向け本腰が入らないのがもどかしい状況です。また、被災者の方々の避難所生活が長引くことによる多面的な影響が大変心配です。東京電力による計画停電の実施も長引くことが予想され、震災の爪痕は相当期間にわたって尾を引くことになりそうです。

 今回の震災は、おそらく後世から見て重大なエポック・メイキングとして捉えられることは間違いないでしょう。アメリカにとっての9・11に匹敵するくらい、日本人の心性にも大きな影響を与えるでしょう。

 おそらく、今回の震災・津波は、日本人の自然や科学技術に対する姿勢を考え直す転機になるのではないかと思います。

 人間と自然の関係は、東洋と西洋では歴史的に大きく異なってきました。自然は征服し、コントロールすべき対象であった西洋に対し、東洋では人間と自然は共存関係にあり、対立関係とは捉えられません。自然を支配しようとすれば、必ずや自然のしっぺ返しを食らうという認識は、日本人を始めとする東洋人の根底に深く流れている思想ではないかと思うわけです。

 かつて寺田寅彦が「日本人の自然観」と題するエッセイの中で、次のように述べています。

「・・・われらの郷土日本においては脚下の大地は一方においては深き慈愛をもってわれわれを保育する「母なる土地」であると同時に、またしばしば刑罰の鞭をふるってわれわれのとかく遊惰に流れやすい心を引き緊める「厳父」としての役割をも勤めるのである。厳父の厳と慈母の慈との配合よろしきを得た国がらにのみ人間の最高文化が発達する見込みがあるだろう。」

寺田寅彦 日本人の自然観
 この自然観こそ、これからの震災復興における原点になるべきではないかと思います。とりわけ、今回の東京電力計画停電原発のトラブルは、厳父としての自然が、安易に原子力に頼りすぎていた人間社会に課した試練と捉えられるかもしれません。

 ところで、3月23日の日本経済新聞の32面で、宗教学者山折哲雄氏が大変示唆に富んだ発言をされています。山折氏は、東京電力計画停電について次のように述べています。

「人間はそもそも不可解で未知なもの。それを説明可能であるかのように、幻想を与えたのが現代科学だ。確かにそれは森羅万象を合理的に説明する。その意味で近代科学は無意味ではない。ただ、近代科学には限界があることを認識しておくことも必要だ。それを忘れたところに現代の傲慢が隠されている。今回の大震災はまさにその虚を突いてきたといえるのではないか。」

 今回の地震津波は、人間の科学技術に対する姿勢にも大きく影響してくるでしょう。東京の首都機能が停電によって大混乱したことは、近代科学の限界を如実に表しています。また、もともと自然界にはない核生成物質を人類が作り出し、人間社会がその核生成物質の取扱に翻弄されている状況は、極めてアイロニーな状況と言えるでしょう。核実験によって生み出されたとされるゴジラが人間社会に襲いかかるのと似たような状況が今生じているのです。

 もちろん、人間社会はこれからも科学技術の恩恵を受けていかなければ成り立ちません。しかし、その科学技術も、人間が自然を征服したりコントロールしようという西洋的思想によって用いられるのであれば、二の舞を演じることになりかねません。ここで参考になるのが、寺田寅彦の見方です。

「全く予想し難い地震台風に鞭打たれつづけている日本人はそれら現象の原因を探求するよりも、それらの災害を軽減し回避する具体的方策の研究にその知恵を傾けたもののように思われる。おそらく日本の自然は西洋流の分析的科学の生まれるためにはあまりに多彩であまりに無常であったかもしれないのである。

 この寺田寅彦の見解が、今後の科学の在り方に対して具体的にどのような指針を与えるかについては、今断じることはできませんが、おそらく日本人の現代科学に対する姿勢は変化を見せていくのではないかと思います。

 中でも特に、原子力技術に対する人間社会の姿勢は非常に難しい問題です。原子力技術は人間が自然界にない現象を引き起こそうとしているものですから、ある意味で日本人的な自然観とはかけ離れたものと言えます。しかし、他方では原発をなくそうとすれば、日本のエネルギー利用の在り方は根本から見直されなければなりませんし、地球温暖化対策も抜本的に見直される必要が生じます。この問題にどう向かい合っていくかによって、日本人が日本の自然に合ったような文明社会を構築していけるかどうかが決まってくるように思います。

 原子力安全委員長が国会の場で、原発の設計の想定が悪かったと認めている以上、これからの原発推進は極めて難しくなることは明白です。原発訴訟にも大きな影響を与えることになれば、各地の原発が次々と運転停止に追い込まれる事態も想定しなければならなくなるかもしれません。

 そんな状況の中で、日本社会が諸外国に先駆けて“超自然エネルギー社会”“超省エネルギー社会”を構築できるかどうか、日本の科学技術が試されているのかもしれません。


 また、人間社会における宗教のあり方についても、山折氏は興味深い発言をされています。今後宗教に改めて目が向けられるのではないかという視点です。

「震災で生死を分けた偶然は、科学的にも論理的にも、どんな因果関係でも説明できるものではない。納得のいかない割り切れなさ、受け入れがたい事実を抱えると、人は立ちすくんでしまい、耐えるものもつらくなる。宗教はこれに対処する糸口を持ちうる。今回の地震で、改めて多くの人が宗教の必要性を感じているのではないか。」

 山折氏は、今回の地震を、浄土宗の開祖法然や浄土真宗の開祖親鸞らが生きた平安末期から鎌倉初期の末法の様相と比較します。そして、かつて日本列島は自然の猛威や大量死と背中合わせに暮らしてきており、それが、永遠なものはなく形あるものは滅びるという死生観や無常観を培ってきたのに対し、戦後日本は無常という概念にふたをするように、死と正面から向き合うことを避けてきた、と述べています。

 今回、死者や行方不明者が2万人を超える大被害が発生している中、日本人の誰しもがおそらく知人や知人の知人などが巻き込まれている状況と思われます。身近な人たちが何の因果もなく津波に巻き込まれ亡くなっている状況の中で、元来日本人が受け継いできた無常観が再び甦ってくることでしょう。そして、こうした無常観があるからこそ、日本人は厳父としての役割を持つ自然の中で生き延びてくることができたと言えるでしょう。

 寺田寅彦は、仏教の根底にある無常観が日本人の自然観と調和したからこそ、仏教が日本で土着・発達したと述べていますが、無常観を支えるのが仏教思想です。今、様々な宗教の中でもとりわけ仏教の無常観こそが求められているのかもしれません。

 TVのインタビューに対して「頑張るしかない」とさばさばと答える被災者の方々の姿を見ると、日本人の深層に流れる無常観の力を感じないわけにはいきません。

 もう一つ忘れてはならないのは、天皇制の存在かもしれません。私は、こういう未曾有の困難に陥っているときこそ、国家の象徴としての天皇陛下の存在が社会の団結にとってますます重要になってくるのではないかと思っています。

 日本社会が日本人の精神性を立て直し、国家として団結を保っていくことができれば、震災や津波の被害から早期に立ち直ることができるのではないでしょうか。