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最近の菅総理を見てみると・・・

 最近、菅総理が「政治決断」を演出する場面が増えています。法人税率引き下げ、諫早湾訴訟の上告断念、小沢元代表への政倫審出席要請等々。

 菅総理が小泉元総理の力強い手法を意識しているのはおそらく間違いないでしょう。何か総理自身が決断し、それをマスコミの前で力強くアピールする、それはそれで決して誤った手法ではありません。

 しかし、「政治決断」とは、決断することに意味があるのではなく、決断の内容の妥当性にこそ意味があります(当たり前のことですが…)。

 例えば、法人税率の引き下げ。財源の裏付けなき減税は国家財政に対する危機感を高め、将来の年金受給に対する不安をますます助長するでしょう。そうした不安を上回るほどの景気浮揚効果はおそらく見込めないでしょう。経済界に強い口調で言われて、その効果もよく分からないままに総理が決断してしまったという印象です。
 法人税率を引き下げたからといって、これから大企業が減税に見合うだけの国内投資を実施し、あるいは労働者の賃金や雇用の安定に寄与するような行動をとるという保証はありません。減税分が大企業の経営者の賃金引き上げをもたらしたり、企業の内部留保を増やすだけに終わってしまう可能性も大いにあるでしょう。そうしたことの起こらないよう、国民は大企業の行動をしっかりとチェックしていく必要があります。

 諫早湾訴訟の上告断念についても、既に入植が進んでいる状況下の開門はそう簡単な判断ではありません。それを長崎県への事前の説得もなく突然判断するというのは、手法として稚拙と言わざるを得ません。いくら前政権とはポリシーが異なるからといって、地元の住民は既に決まった方針に沿って対応してきたわけですから、政策の大幅な変更は、そうした何の罪もない地元住民に対する配慮措置を講じた上で行うべきです。長崎県民が怒るのも無理はありません。

 小沢元代表に対する政倫審出席要請も、結局、小沢氏との対決姿勢を示すことによって内閣支持率回復を狙った見え透いた行動にしか見えません。小沢氏が政倫審に出席しないと言っている中で、小沢氏との対決構図を一生懸命にアピールしようとする民主党執行部の対応は、端から見て滑稽と言わざるを得ません。小泉元総理が郵政問題で身内を「抵抗勢力」と称して徹底的に戦って支持率を上げた状況を再現しようとする思惑が見え見えです。

 結局、菅総理の最近の行動は、小泉元総理を目指しているにもかかわらず、全くなりきれていないのです。私は小泉元総理の政策に賛同できなかった点は数多くありました。しかし、小泉元総理は確固たる信念があった上でそれを貫くための「政治主導」を行ったように見受けられますが、菅総理にはそうした確固たる政治信念を感じ取ることができず、「政治主導」を演出するために何やら始めからウケ狙いのパフォーマンスに見えてしまうのです。あらゆる行動が内閣支持率を上げるための行動に見えてしまうのです。そういう見え透いた行動を多くの国民が見透かしているからこそ、菅総理の支持率は下落し続けるという悪循環にはまっているような気がします。

 これは民主党政権全体について言えることですが、大した信念もないにもかかわらず、マニフェストと称してさぞかし立派な政治信念があるかのように国民に宣言してしまったところに、大きなズレが生じてしまっているような気がします。だから、今になって、それを変えようにも変えられないというジレンマに陥ってしまったのです。

 事業仕分けの手法も実にお粗末です。このことは既に何度も述べてきたので繰り返しませんが、支持率を上げるための政治の典型的なポピュリズム手法です。

 おそらく、菅総理は総理になる準備が全くできていなかったのでしょう。外国首脳とのトップ会談で自信なさげにカンニングペーパーを携えている光景は、あまりにお粗末です。あの自信なさげな顔つきと疲れ切った無理した笑顔がテレビに映るたびに、日本の国益を損ねているような気がしてしまいます。菅総理の口から出る言葉にも力強さがありません。

 もしかすると、日本の政治には明確な対立軸がないにもかかわらず、無理矢理違いを出そうとすることが、政治の不幸を招いているのかもしれません。

 民主党マニフェストも、無理矢理自民党政権との違いを出そうとした結果、実現できもしない公約を掲げることとなってしまったわけで、また、民主党が野党時代に無理矢理自民党政権を攻撃した論理が、今になって自らに返ってきてしまっているわけです。


 誤解を恐れずにあえて言えば、日本の政治風土には実は自民党政権下の派閥政治のようなスタイルが似合っているのかもしれません。自民党政権は言ってみれば、党内に複数のミニ政党が存在して抗争を繰り広げるとともに、様々な政策論争も交わされてきたわけですが、最後に党としての意見は一つ集約されました。また、派閥の長となることで総理候補が生まれ、総理になるに相応しい経験を積みながら最終的に総理の座に就いたわけです。

 派閥は金権政治の象徴的システムのように見られがちですが、派閥が崩れた今の制度の下であっても、政党の幹事長が党内議員に金を配る構図は変わりません。結局、政治に金がかかる限り、金の分配システムは必ず必要になるのです。

 派閥の効用について考えてみるのも決して無意味ではないでしょう。

 近年は二大政党制が好ましいというような大きな流れがあったように思いますが、政治が安定するような政治システムをもう一度じっくり考え直す時期に来ているような気がします。