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映画、書評、ジャズなど

大竹伸朗「既にそこにあるもの」

既にそこにあるもの (ちくま文庫)

既にそこにあるもの (ちくま文庫)

 直島の有名な銭湯や歯医者を改造したアートを創り出すなど、日本の現代アート・シーンの最前線を進み続ける画家によるエッセイ集です。

 大竹氏は東京芸大に不合格となった後、ふと目にした雑誌の記事をきっかけとして北海道の別海町の牧場に住み込みで滞在することになり、その後はロンドンにも滞在し、そして現在は20年間にわたって宇和島市に居住しながら創作活動に取り組んでいるという流浪の民のような生涯を送られてきています。

 このエッセイ集は、そんな大竹氏がユニークな視点で様々な事柄について論じた、秀逸な作品です。

 この作品における大竹氏の視線には、一貫して貫かれている思想があります。それは、私なりに解釈すれば、本来の意図とは離れたところにこそ惹かれるものが存在する、といったところでしょうか。そこには論理的な理由などはなく、あくまで直感として惹かれるという事実のみ存在するわけです。例えば、次の言葉は象徴的です。

「画家とか彫刻家、美術家、造形作家、どう呼ぼうがどうでもいいが、そう自ら名乗る人間にとって、作品制作における“意図”とは一体何なのだろう。意識的な制作意図をどこかしら超える瞬間のないものは、もはや“作品”とは呼べない。僕はこの“作品”と“意図”の関係が今でも不思議でならない。」

「僕はなぜか昔から、中心に置かれたものや、目的を一身に担っているようなものに、心があまり動かない。絵やポスターで言うなら、中心となるモチーフではなく、その人が良いとか悪いとかいう一つの価値以前の部分、本人が無意識に捨て去ってしまっているものに反射的に興味が湧く場合が多い。」

「言い古された言葉であるが、僕は「美は乱調にあり」という言葉が好きである。「美」とか「乱調」だとかいう言葉からは、自ずと着流しの主張が出て来てしまうが、オリジナルの意味を無視した所で眺めると、不思議とそのフレーズからは様々な風景が浮かんでくる。・・・スタート地点で「これはだめかもしれない」というある種絶望的な所から闇雲にスタートし、八〇%の不安で突っ込んでいった結果の方が興味がわくし、そんなやり方で何か予期せぬ出来事に出くわすことができた時、それが自分にとっての「美」のような気がする、」

「結局僕にとって物であれ計画であれ、これが面白そうだと限定した瞬間につまらなくなってしまうのを感じるし、面白いものを探すより、人がつまらない、不必要だと思うものの方に可能性を強く感じるからだと思う。」

「何か引っかかるものというのは常に自分の予想が裏切られた瞬間にやってくるらしい。そんなわけで僕が積極的に探し求める音は、ノイズ・ミュージックと呼ばれるものが多いのだが、それらの音の共通点には、やはり「裏切り」が必ずある気がする。絵でも音楽でも一番厄介なのは「作意」というやつだ。」

 だから、大竹氏は、取り壊される宇和島駅に設置されていた文字盤や、造船所の朽ち果てた木造船、田舎の喫茶店で目にする何の変哲もないマッチのデザインなど、普通の人であれば注目しないようなものに惹かれ、それを様々なアート作品に昇華させて魅力を引き出しているのです。

 そして大竹氏のもう一つの哲学といえるのは、本書のタイトルにもなっている「既にそこにあるもの」です。

「何に衝動的に興味を持つのか、あえて言葉に置きかえるなら、「既にそこにあるもの」との共同作業ということに近く、その結果が自分にとっての作品らしい。」

 本書には大竹氏が見た夢に関する記述が随所に出てくるのですが、夢も何もないところから生まれるのではなく、既にあるものをベースに生まれてくるものだからこそ興味深いと大竹氏は述べています。

 本書には、大竹氏の宇和島に対する愛着が随所に顔を出しています。
 例えば、宇和島の造船所に向かう道の美しさについて。

「春の季節、そこへ車で行く途中の峠から一望する桜並木越しの吉田湾の美しさを僕は言葉にすることはできない。」

 そして宇和島のゴミについて。

「海に面した宇和島へ移って実感したのは、東京のゴミは不用なゴミとして吐き出された後も人間の意識/無意識に支配されていると感じるのに対し、宇和島のゴミは人が捨てたものに雨や風、陽の光などが参加する時間的余地によるゴミ自身による新しい世界がつくり出されているように見えることだ。」

 現在、宇和島という街は、中心部の商店街も寂れ、人影もまばらな街となっています。かつて真珠で栄え活気を呈していた街の面影はほとんどありません。そんな宇和島の街を大竹氏のような視線で見ると、今まで気がつかなかったような不思議な魅力が見えてくるような気がします。

 こういう斬新な視線によって既にあるものに新たな魅力を吹き込むことこそ、大竹氏のアートの魅力であり、また現代アートの魅力であると言えるかもしれません。