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東浩紀編「日本的想像力の未来 クールジャパノロジーの可能性」

日本的想像力の未来?クール・ジャパノロジーの可能性 (NHKブックス)

日本的想像力の未来?クール・ジャパノロジーの可能性 (NHKブックス)

 今年3月に開催されたシンポジウムのプレゼンと討議をまとめた本です。

 各論者の主張を俯瞰すると、アカデミズムがいまだ日本文化の「クール」さについて捉え切れていないなぁという印象です。特に全体を通じて成熟/未成熟という関係性から捉えられている点に大きな違和感を感じました。

 キース・ヴィンセント氏は、日本を「未成熟」だとして、未成熟から生じるかわいらしさという見地から論じていますが、成熟・未成熟という欧米からの一方的視点が色濃く反映されており、あまり響く議論ではありません。

 毛利嘉孝氏の「トランスナショナルな「理論」の構築に向けて」と題された論考も、カルチュラル・スタディーズのポスト・コロニアリズム的な視点が強調されすぎなきらいがあり、あまりピンときません。

 宮台真司氏は、日本社会における「かわいい」の意味の変遷を論じています。「かわいい」という言葉は、最初は「みんなに好かれる」という子どもに対する形容詞だったのが、カウンターカルチャー的文脈の助けを借りて大人に使われるようになりカウンターカルチャー終焉後は大人に使われる「みんなに好かれる」となり、最終的には「僕だけの」という形容詞と置き換え可能な、ある種のコクーン(繭)を意味するものに変わったと述べています。そして、90年代、少女たちは「かわいい」をコクーニングのツールとして使用することにより、これをコミュニケーションに活かしていったとします。つまり、コクーニングは内向的なものから外向的なものへと変化し「変の無害化」をもたらし、これが少女たちの援交ブームやブルセラブームへとつながっていったというわけです。
 この「かわしいによる変の無害化」は、かつては社会的文脈の無関連化の機能として解放を意味したものの、すでにフラット化した社会においては、意味が薄れていくのではないかと宮台氏が主張している点は、昨今の「クール・ジャパン」ブームと一線を画する意味で興味深い点です。

 一点参考になったのは、ジョナサン・エイブル氏が「クール」の概念について次のように述べている点です。

「この世界に対して超然とした「クール」は、アフリカ系アメリカ人の文化であるジャズから生み出された概念です。この「クール」の意味は、二〇世紀の初期から中期にかけて、ラグタイム・ジャズの白熱した演奏を形容した「ホット」という言葉との対照から登場したものでした。」

 シュテヒ・リヒター氏も、

「クール」という概念は、もともと「反抗と批判のハビトゥス」を意味してきました。主に北米の黒人マイノリティは、この「クール」という概念のもとに、不当な社会的束縛や支配に対して明確に自分たちの身を守ろうとしてきたのです。」

と述べています。

 つまり、「クール」には、既存のシステムから超然とした姿勢が表れていると言えるでしょう。村上隆氏の「スーパーフラット」という概念が西洋的な歴史的文脈に位置づけられていながらも、それまでの西洋的絵画史からは超然としているところに本質があることと整合的に理解することが可能です。この点は大変参考になりました。

 全体を通した印象としては、「クール・ジャパン」をアカデミックに検討するには、もう少し違ったアプローチが必要なのではないか、という感じを受けました。


 ちなみに、本書でもっとも共感を覚えたのは、映画監督の黒澤清氏が、『アバター』と『ハート・ロッカー』を酷評している箇所です。特に『ハート・ロッカー』について、

「「中東でアメリカ兵はこんなにがんばっている」という描写に終始した映画と言ってもいいかと思います。」

と述べている箇所には思わずうんうんとうなずいてしまいました。