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映画、書評、ジャズなど

「ヘミングウェイ短篇集」

文学

ヘミングウェイ短篇集 (ちくま文庫)

ヘミングウェイ短篇集 (ちくま文庫)

 ちくま文庫から出されているヘミングウェイの短篇集です。
 決して読みやすい文体ではなく、物語の趣旨も漠然としたものが多いのですが、読後に強烈な虚無感が残るのは、ヘミングウェイの文体の力によるものでしょう。

 印象に残る短篇をいくつか紹介したいと思います。

 冒頭の「清潔で明るい場所」は、ジョイスが完璧と賞賛したとのこと。深夜のカフェにおける2人のウェイターと上客の老人の話です。老人はもう一杯飲んでいきたかったが、ウェイターの1人は早く帰宅したかったためにこれを拒否。老人は去っていきます。

「おれは毎晩時間がきて店を閉めるのがいやだ。カフェを必要とする人間がいるかもしれないから」

というウェイターの言葉が印象的です。

 それから「白い象のような山並み」。これは、訳者が

「この作品がデフォー以来世界中で書かれた短篇小説のなかで屈指のものであることに疑いをさしはさむ余地はない」

と述べている作品です。駅舎で列車を待つアメリカ人と若い女のやりとりが題材となっています。男は女に対してこれから受けなければならない手術が簡単であることを説き、女は不機嫌になり2人は言い合いになりますが、最後には再び良い気分に戻っていきます。

 「殺し屋」はこれから殺し屋が自分を殺しにやって来ることを知りながらも、逃げることをしない元ヘビー級のプロボクサーの話。

 「敗れざる者」は、かつて輝いていた闘牛士が引退をかけて決死の試合に挑む作品です。臨場感溢れる緊迫した描写は格別です。

 「この身を横たえて」は、戦場で不眠症と闘う兵士の話。

 「神よ、男たちを愉快に憩わせたまえ」は、性欲の強さに悩む去勢願望の少年が自ら切り落としてしまう話。
 
 「雨のなかの猫」は、ホテルに滞在するアメリカ人夫婦の話。夫人は広場にうずくまっていた猫を探しにいくものの見つからなかったが、ホテルの主人から夫人に猫が届けられた。

 「キリマンジャロの雪」は、映画にもなった有名な作品。アフリカで脚が腐ってきて死期が近いことをさとりながら救援を待つ男と女の話。大自然の脅威の中での緊迫した情景とキリマンジャロの美しい背景のコントラストが絶妙です。冒頭の以下のエピグラフは大変有名です。

キリマンジャロは雪に覆われた標高一九七一〇フィートの山で、アフリカでもっとも高い山と言われている。西側の頂はマサイ族の言葉でヌガイエ・ヌガイ、「神の家」と呼ばれている。その頂にほど近いあたりにひからびて凍った豹の死骸がある。豹が何を求めてそれほどの高さまで登ったか、説明できない。」


 いずれの作品においても、ヘミングウェイが特定の価値観を描こうとしている感じは伝わってきませんが、ただ、物語の情景の端々にヘミングウェイの感性が潜んでおり、それが時々異彩を放って輝いているような印象です。この点については、訳者解説の中で鮮やかに表現されています。

ヘミングウェイの描く世界に「価値」はない。しかし、人は価値のない世界では生きてはいけない。だから、何とか探そうとする。価値とはカフェの光だったり、キリマンジャロの白く眩い頂だったり、巨大な売春婦の美しい声だったりする。」

 ヘミングウェイの作品の特徴をとても端的かつ的確に表していると思います。

 パリ滞在中に実際カフェに入り浸っていたヘミングウェイの生き方の中でカフェは大変重要な位置を占めていたわけですが、この短篇集の中で多くのカフェを登場させており、大変効果的にカフェが浮き上がっている感じです。

 難解ですが強烈な読後感を植え付ける作品でした。