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村上春樹「1Q84 BOOK3」

1Q84 BOOK 3

1Q84 BOOK 3

 1Q84シリーズ3部作の完結編です。

 第1巻と第2巻では天吾と青豆の場面が交互に進んでいく構成でしたが、第3巻では天吾と青豆に牛河が加わり、3つの場面が交互に進んでいきます。牛河は、教団「さきがけ」から青豆の行方の捜索を依頼される元弁護士の探偵ですが、青豆と天吾のつながりにいち早く気づき、両者の接点となる重要な役割を担っています。青豆の生い立ちを調べていくうちに、青豆と天吾が同じ小学校の卒業生であり、しかも同級生であることを知ります。牛河は「さきがけ」からの依頼の範囲を超えて、天吾の監視にのめりこみ、結果的に、青豆を匿っているグループに残忍に殺害されてしまいます。牛河が死んだ後、天吾と青豆は公園のすべり台の上で再会を果たし、2人は1Q84の世界から脱出を図ります。

 この巻の一つ重要な設定は、青豆が性行為を伴わずして懐胎するというものです。青豆はそれを天吾との間の子どもだと信じて疑いませんが、「さきがけ」のメンバーたちは、この子どもは青豆に殺害されたリーダーの子どもであり、天の声を聴くことができる跡継ぎと考え、青豆を執拗に追うことになります。

 この話から彷彿されるのは、もちろんキリストの処女懐胎の話です。キリストはマリアとヨゼフの間の子どもですが、マリアは性交を伴わずしてキリストを懐妊するわけです。性行を伴わない懐胎というのは、神秘的な現象として捉えられてきたのです。

 このキリストの処女懐胎について、マリアは見知らぬ男に犯されて身ごもったが、ヨゼフはそれを承知の上で、キリストを生むことを認めたという解釈があるそうです。この解釈によれば、ヨゼフはマリアやキリストを世間の冷たい視線から守るためにキリストの父であることを演じ通した慈悲の心に満ちあふれた人物だということになります。確かに性行為なしに子どもを身ごもるというのは生物学的にはあり得ない現象であり、こうした解釈はある意味説得力があります。

 さて本書に話を戻すと、聖マリアと同様、青豆が性行為なしに子どもを身ごもるということは現実の世界ではあり得ません(もちろん物語の中では何でもありですが、、、)。とすれば、この物語は一つ重大な秘密が明かされぬままに終わっていると捉えることもできるかもしれません。つまり、青豆は実は「さきがけ」のリーダーと性交渉としており、その事実が最後まで隠されているのではないか?ということです。そうだとすれば、「さきがけ」が青豆の行方を必死に追い、子どもを手に入れようとしていることも、すんなり説明がつきます。

 仮にこうした解釈を取れば1Q84に更なる続編があってもおかしくないかもしれません。

 そもそも、この第3巻は、天吾と青豆が1Q84の世界から一緒に無事抜け出すという結末があまりにも当たり前過ぎます。正直、村上文学らしからぬ結末となってしまっています。個人的には、続編が出て、実は青豆には重大な秘密が隠されていた、、、というストーリーで続いていってほしいと思います。