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映画、書評、ジャズなど

モーム「月と六ペンス」

月と六ペンス (新潮文庫)

月と六ペンス (新潮文庫)

 ふと本書を読み返してみたい気持ちになりました。中野好夫氏の好訳がさえている新潮文庫版です。

 画家ゴーギャンがモデルとされているストリックランドの生涯について、一人称の私が振り返っていく内容で、淡々として第三者的な冷静な視線での描写が読む人を惹き付けます。

 ストリックランドは株屋として働き家庭を持つ夫であり父親であったが、ある日突然パリに行ってしまう。ストリックランドの妻は当然どこかの女と駆け落ちをしたと考えるのだが、私がパリに行ってみるとそこには女の影などみじんもなく、ストリックランドによれば純粋に絵を描きたいがために家族を捨ててパリに来たと言う。そして、家族の下へ帰ることなど全く考えてもいない様子だった。

 このストリックランドの書く絵にぞっこん惚れているのがストルーヴという男だった。ストルーヴは妻と二人でささやかな夫婦生活を送っていたが、ストリックランドに惚れ込む夫が病気のストルーヴを家に連れてきて看病を始めて以来、大きく歯車が狂い出す。当初ストルーヴの妻ブランシュはストリックランドを激しく毛嫌いしていたが、いざストリックランドが家に来てその看病をしているうちに、ストリックランドと恋仲に陥り、結局、夫のストルーヴが家を追い出される結果になってしまった。ブランシュは夫の元に戻るつもりは毛頭なかったが、やがて、ストリックランドはブランシュに冷酷に当たり、ブランシュは毒を飲んで自殺を図る。ここまでの仕打ちを受けたストルーヴはストリックランドを憎むどころか、ストリックランドを母国に一緒に来ないかと誘う始末で、しかもストリックランドが描いたブランシュの裸の絵をもらい受けてしまう。

 その後ストリックランドはマルセイユを経て、タヒチ島にわたる。そこで彼は真の故郷を見つけたのだった。ストリックランドはタヒチの娘アタと結婚し、子供をもうける。自然の楽園の中で彼らは幸せに暮らす。やがてストリックランドはらい病にかかるが、アタは周囲の冷たい視線の中、献身的にストリックランドを看病する。ストリックランドは死ぬ間際、盲目の中で住居の壁や天井に壮大な絵を描くが、死後、その遺言どおり住居は燃やされる。

 ストリックランドの絵は、生前はストルーヴの希有な慧眼を除き評価されることはなかったが、やがて人々はその絵を高く評価するようになり、ストリックランドの絵を買いあさるようになる。。。



 この小説を際立たせているのは、ストリックランドに心酔しているストルーヴのキャラクターでしょう。誰もストリックランドの絵を評価していない時分にその素晴らしさを高く評価し、自分の妻を奪われてしかもその妻が自殺を図った後でさえも、ストリックランドを故郷に連れて帰ろうとする愚かさ。そんな馬鹿なことがあるはずないと一見思ってしまうのですが、この作品の中では極めて説得的なキャラクターとして描かれているのです。彼の一見異常でありながらどこか納得させられてしまうような不思議な思考によって、本書は支えられているといっても過言ではないでしょう。 

 中野好夫氏の解説でもこのストルーヴのキャラクターについて次のように触れられています。

描かれた性格としてはかんじんなストリックランドのはなはだしい通俗的興味に対して、挿話的人物ではあるが、ダーク・ストルーヴの鮮明さは、けだし本作品(あるいはかかる一種の芸術家型を描いた世界文学中)の圧巻ではあるまいか。

 モームは随所に感心させられるような格言を忍び込ませるのがうまい作家です。ストリクトランドの絵を見てもその良さを理解できなかった私の言葉。

われわれは、この世界にあって、みんな一人ぽっちなのだ。黄銅の塔内深く閉じこめられ、ただわずかに記号によってのみ互いの心を伝えうるにすぎない。しかもそれら記号もまた、なんら共通の価値を持つものでなく、したがって、その意味もおよそ曖昧、不安定をきわめている。笑止千万にもわれわれは、それぞれの秘宝をなんとか他人に伝えたいと願う。だがかんじんの相手には、それを受け容れるだけの力がない。かくして人々は肩を並べながらも、心はまるで離れ離れに、われわれも彼らを知らず、彼らもまたわれわらを知らず、淋しくそれぞれの道を歩むのだ。

 男と女の恋愛観の違いについて。

恋人としての男女の差異は、女が四六時中恋愛ばかりしていられるのに反して、男はただ時にしかそれができないということが。

人間の中には、ちゃんとはじめから決められた故郷以外の場所に生まれてくるものがあると、そんなふうに僕は考えている。

 中野好夫氏の解説によれば、本書のタイトル『月と六ペンス』の「月」は人間をある意味での狂気に導く芸術的創造情熱を指すものであり、「六ペンス」はストリックランドが弊履のごとくかなぐり捨てた、くだらない世俗的因襲、絆等を指したものであるようです。この物語全体がこのタイトルが表すモチーフを表現したものですが、本書の中で挿話的に用いられている一つのエピソードがこのタイトルを別の形で表現しているように思われます。

 それは、次のような話です。
 ある病院に誰もが秀才と認めるエイブラハムという青年がおり、病院の中で前途洋々で富と名声が手に入ることは間違いなかったのだが、あるとき突然アレクサンドリアに惹かれ、アレクサンドリアこそ自分の人生を送る場所と決心してしまった。
 他方、このエイブラハムが抜けた後を埋めた男は、エイブラハムがいる限りは出世できる望みはなかったのだが、エイブラハムがいなくなったことで成功を収め、ナイトの称号を手に入れている。この男はエイブラハムのことを意志の力がなかったことにより一生を台無しにしてしまったと評している。
 これについて一人称の私は次のように述べます。

だが、果してエイブラハムは一生を台なしにしてしまったろうか? 本当に自分のしたいことをするということ、自分自身に満足し、自分でもいちばん幸福だと思う生活をおくること、それが果して一生を台なしにすることだろうか? それとも一万ポンドの年収と美人の細君とを持ち、一流の外科医になること、それが成功なのだろうか? 思うにそれは、彼が果して人生の意味をなんと考えるか、あるいはまた社会といい、個人というものの要求をどう考えるか、それらによって決るのではあるまいか?

 このフレーズに本作品のモチーフが端的に表現されているような気がします。