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マイク・モラスキー「ジャズ喫茶論」

ジャズ喫茶論 戦後の日本文化を歩く

ジャズ喫茶論 戦後の日本文化を歩く

 本書は日本文化をジャズという切り口から研究するアメリカ人研究者マイク・モラスキー氏による本です。モラスキー氏は日本全国のジャズ喫茶を丹念に巡り歩き、戦後の日本社会史におけるジャズ喫茶の意義付けを鮮やかに行っています。

 モラスキー氏のジャズ喫茶論は、前著『戦後日本のジャズ文化』に一章が設けられていますが、この中でモラスキー氏は、ジャズ喫茶を批判的なまなざしで取り上げています。

やはり、ジャズ喫茶での音楽の発生源は、目の前で演奏している、生きた人間ではなく、事前に録音済みのレコードとオーディオ・システムという機械的な媒体である以上、ジャズ喫茶の儀式化された聴き方から生まれるさまざまな<意味>は見出せるとしても、そして客ひとりひとりの想像のなかで一種の<共同体意識>が生まれても、その共同体には相当限界があるのではないだろうか。音楽を聴きながら反応を示したり、周りの客と感想を交し合ったりすることが許容されるような店の場合は別だろうが、代表的な硬派のジャズ喫茶に関しては、これらの疑問は容易に解消できないように思う。

 こうしたジャズ喫茶に対するまなざしは近著の中でも立派に貫かれているのですが、ただ、本書では、全国のジャズ喫茶を巡る経験を通して、ジャズ喫茶に対する温かいまなざしが合わさってきている点が大変興味深く感じられます。

 モラスキー氏は本書の中でいくつか興味深い指摘をされています。一つは、50年代末期から70年代初期にかけてのジャズ全盛期におけるジャズ喫茶の共通点を「新たなる3K」と捉えている点です。3Kとは、

1.欠如
2.距離感
3.希少性

 つまり、

ジャズ喫茶というのは(1)「一流」の生演奏を身近に聴けない状況を前提として成り立っており、(2)ジャズの「本場」とされるアメリカから、あらゆる意味でかけ離れていたという認識に支えられており、そして(3)きわめて<希少性>のあった輸入盤レコードやオーディオ・システムを所有し、提供していたことが大きな存在理由だった

というわけです。80年代以降の日本のジャズ喫茶の衰退は、こうした3Kが解消されていったことによるものだというのがモラスキー氏の見立てです。

 それにしても、ジャズ喫茶の店主たちを通じて実に深い人間模様が見えてきます。JASRACの集金と頑なに闘う店主、熱海で水商売の娘たちを見つめ続けた店主などなど。

 そして、ジャズ喫茶考が立派な社会学というか哲学となっているのが、何よりも心を打たれます。ジャズ喫茶と太平洋戦争、ジャズ喫茶と米軍基地、ジャズ喫茶と録音メディアとの関係、ジャズ喫茶と学生運動、ジャズ喫茶と風俗、ジャズ喫茶と文化人などなど、ジャズ喫茶という軸を中心に様々な事象が絡み合ってくるところが、本書の最大の魅力です。

 モラスキー氏自身も、数々のジャズ喫茶を訪れていくうちに、当初はジャズ喫茶を生のライブに劣るものと捉えていたのが、次第にジャズ喫茶という視覚が欠如した空間自体に魅力を見出す方向にシフトしていったかのようにも見受けられます。ジャズ喫茶に対する思い上がりを指弾しながらも次第にジャズ喫茶の店主たちに共感を寄せてしまう、そんな著者の暖かさが本書から伝わってきます。

 モラスキー氏は一橋大学で教鞭をとられるようですが、こういう方が今後も日本社会を鋭く分析していったら面白いなと思います。