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映画、書評、ジャズなど

パリ・ローマ漫遊記(1)

旅行記

 今回、初めてパリとローマを訪れる機会を得ました。
 パリといえば、その美しい街並みの魅力によって世界中から大勢の観光客を集める都市ですが、最近、文化的にクリエイティブな街づくりに関心があることもあり、パリの魅力の秘訣を探ろうと、訪れる前から高揚感に浸っていました。ローマも我々日本人からはとても想像できない古代の遺跡が街中に存在している都市であり、現代と過去がどのように共存しているのか、行く前から興味津々でした。

 まずは、パリについて感じたことを書いてみたいと思います。

パリに到着

 日本を飛び立った飛行機がパリ郊外のシャルル・ド・ゴール空港に着陸する際、外はかなり雨がぱらついている状況で、雨のパリ生活となることも覚悟しましたが、空港から市内のホテルに向かう途中で晴れ間が見えだし、ホッとしました。
 ホテルはルーブル美術館のすぐ近くで、両側に古いアパートが立ち並ぶ一角にありました。ホテルの前の通りは一方通行で、その両側を路上駐車の車がびっしりと埋め尽くしていました。聞くところによるとパリでは駐禁を取られるのはロシアンルーレットみたいなものなのだそうで、だから路駐も堂々と行われているようです。おそらく、パリの通りは一方通行となっている場合が多いので、車線が減っても基本的にすれ違いを気にする必要はなく、だからこれだけ路上駐車が多くても交通がうまく回っているのかもしれません。
 さて、ホテルの建物は築60年くらいはとっくに過ぎているとおぼしき建物です。そして、ホテルに入り真っ先に驚いたのは、手動式のエレベーターです。厳密に言えば、内側の扉は自動であるのに対して、外側の扉が手動になっているエレベーターです。目的階に到着すると、内側の扉だけが開き、外側の扉は自分で押して開けなければなりません。でも、外側の扉が閉まらない限りは内側の扉も閉まらない構造にはなっているようで、少し安心しました。

調和のとれた建物群

 荷物を部屋に置くと、早速パリの街を散歩に出かけます。やはりまず感動するのは、統一感のとれた建物群です。

 これらの建物には戦前に建てられたものも多く含まれているようです。いずれの建物の高さはせいぜい10階程度。ベランダの手摺りは統一のとれた文様が施されています。どれ一つとして街の景観の調和を乱す建物は存在しません。おそらく、これらの建物のうちの一つでも東京の街中にあれば、歴史的建造物として絶賛されるに違いありません。そんな建物が街を埋め尽くしているのがパリという都市なのです。建物の統一感という意味で最も感銘を受けるのは、チュイルリー公園に沿った通りに一直線に並んだ調和の取れた建物群です。歩いていて実に気持ちが良くなります。

 しかも、こうした建物は文化財として保存されているわけでは決してありません。現役の建物として多いに活躍しているのです。多くの建物の1階部分にはカフェやブティックといったテナントが入居し、上層階は居住用となっています。だから、道を歩いていると、ショーウィンドウが目に入るようになっており、歩行者を楽しませてくれます。しかも、そこには生活感が溢れています。ここが日本の都市中心部との大きな違いだと思われますが、日本だと銀座や表参道といったショーウィンドウが並ぶような街の多くには人は住んでいません。パリはそういう街にこそ人が住んでいるのです。だからこそ、昼夜や平日・休日を問わず都市に真の活力がみなぎっていると言えます。

 かつて三島由紀夫が「文化防衛論」の中で、日本文化が「博物館的な死んだ文化」と「天下太平の死んだ生活」の2つに押し込められ、文化が安全に管理されるようになっていることを批判しましたが、

裸体と衣裳 (新潮文庫)

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 今日のパリの文化を見てみると、決して「博物館的な死んだ文化」でも「天下太平の死んだ生活」でもありません。まさに今この瞬間も創造されている文化のように見受けられるのです。

威厳の街

 さて、パリのテュイルリー公園を横切ってそれからシャンゼリゼ通りの方へと向かっていきます。シャンゼリゼ通りはご存じのとおり、多くの店が建ち並ぶショッピング街です。

 パリの中心部ではめずらしく俗化した街で、東京の表参道を連想させるような感じですが、シャンゼリゼ通りをビシッと引き締めているのは、やはりその先にそびえ立つ凱旋門の存在です。シャンゼリゼ通りからこの門を眺めると、背筋がビシッと伸びる気がします。

 この門は、ナポレオン率いるフランス軍がアウステルリッツオーストリア、ロシアの連合軍を迎え撃ち、劇的な勝利を収めた記念として建てられたものです。完成したのはナポレオンの死後だったようで、1840年にようやくナポレオンの棺がこの凱旋門をくぐったそうです。
 凱旋門はフランスの近代史とあまりにも密接に結びついています。ナポレオンの勝利と没落、ナチスドイツの進軍とド・ゴールの帰還、いずれも凱旋門の姿が象徴的に浮かび上がってきます。だから、この門はフランスの栄光の歴史の象徴であると同時に屈辱の歴史の象徴でもあると言えます。
 フランスは今でも国連常任理事国であり、アメリカに物言える列強として君臨するなど、大国としての地位を保っていますが、経済や産業が格段に優れているわけでもないフランスが国際社会の中心に居続けるためには何かこうした威厳と精神の高揚を保つことが必要不可欠なのかもしれません。こうした象徴的構造物によって常に過去の歴史を思い出し自分を奮い立たせているからこそ、フランスは今でも世界から一目置かれている国として存在し続けているように思えます。だから、凱旋門を始めとする威厳は、フランス社会にとって必須の装置と言えるのではないでしょうか。

コンコルド広場の観覧車

 コンコルド広場はフランス革命の際にルイ16世やマリー・アントワネットがギロチンで処刑された広場として有名です。訪問した日にはなぜかこの広場に観覧車が設置されていました。

 見た目は日本にある普通の観覧車なのですが、一回の乗車で3回まで乗れる点、回転速度が日本の観覧車に比べて異様に早い点、が特徴です。回転速度の速い観覧車という“凶器”は何かフランス革命のギロチンを彷彿とさせます。そんな“凶器”がコンコルド広場に設置されているというのは、この広場の怨念を感じてしまいます。
 この観覧車、夜中の12時まで営業していましたので、ちょっと乗ってみましたが、上からの景色はなかなか良いものでした。高層ビルがほとんどないパリ中心部においてこうした高所からパリ市内を見下ろせることができた経験はなかなか貴重かもしれません。
 ちなみに、翌日には観覧車の撤去が始まっていました。

モンマルトルの聖堂

 モンマルトルはパリ中心部の北方に位置する地区です。サクレ・クール寺院は高台にあるため、パリ市内を一望することができます。

 ガーシュインの曲で有名な映画『巴里のアメリカ人』でジーン・ケリーが絵画の個展を開いていた場所でもありますが、今でもテルトル広場は多くの画家たちが集まる場所として有名です。
 地下鉄でバルベス・ロシュシュアール駅(Barbes Rochechouart)に向かいますが、この地下鉄の車内には多くの移民とおぼしき人々でごった返していました。見慣れない光景に少し少し動揺しましたが、考えてみれば、フランス社会は今や多くの移民によって成り立っている社会です。所得の安いと思われる職業にはこうした移民の人々が多く活用されています。
 日本にも近年、インドネシアの介護士の受け容れが始まっていますが、こうしたフランス社会のような方向におそるおそる踏み出しつつあると言えるでしょう。ただ、本格的な移民の受け容れとなると、おそらく社会を二分する大議論になることでしょう。このモンマルトル近くの駅の前にも、移民とおぼしき多くの移民たちがたむろしていました。移民政策の難しさが伝わってきます。
 駅からすぐのところにモンマルトル地区は広がっています。通りから坂をずっと上っていったところにサクレ・クール寺院が建っています。寺院にたどり着くまでの階段は急で、階段の横にはケーブルカーが設置されているほどです。

 へとへとになって階段を上り終えサクレ・クール寺院の中に入ると、そこには高い天井の神聖な空間が展開していました。中の礼拝のための椅子にこしかけて天井をボーッと眺めていると、急な坂を上ってきた疲れのせいもあってか、何か神々しい気分にさせられます。肉体的に疲労している時にこそ神が見えるのかもしれません。日本にも山岳信仰がありますし、山の上が神聖な場所となっていることが多いのは、こうしたことと関係あるのかもしれません。
 寺院から少し横に向かって行くと、テルトル広場があります。先ほど触れたように、今でも多くの画家たちが集い、絵を描いたり、売ったりしています。とても感じのよいこじんまりとした広場です。

 坂をずっと下っていくと、カンカン踊りで有名な「ムーランルージュ」があります。

 大きな観覧車が目印です。ジャン・ルノワール監督の『フレンチ・カンカン』という映画がありますが、この映画で見た限り、カンカン踊り自体あまり上品なものと思えず、あまり好きにはなれませんでした。ムーランルージュのある地域には多くの風俗店が集まっており、パリの中でも何か異質な空間をなしていました。ムーランルージュの中に入ったわけではありませんが、かつて映画にも取り上げられたようなオーラを感じ取ることはできませんでした。

若手ジャズピアニスト トーマス・エンコ

 パリにはジャズクラブはそれほど多くありませんが、いくつか存在します。その一つ「SUNSET/SUNSIDE」に足を運びました。

 この日はThomas Enhco(p,vio), Hein Van de Geyn(b), Matthieu Chazarenc(ds) というラインナップでした。トーマス・エンコは東京ジャズフェスティバルに併せて何度か来日しており、演奏しています。2009年には丸ビルの1階で演奏していたようですが、このときは所要で足を運ぶことができず、残念な思いをしました。最近日本でもアルバムが発売されており、だいぶ以前に購入していましたが、とても繊細で美しいアルバムに仕上がっています。

SomedayMy Prince Will Come

SomedayMy Prince Will Come

 アルバムのライナーノーツによれば、トーマス・エンコは1988年生まれ。まだ二十歳を少し過ぎたくらいの若者です。3歳でヴァイオリンを始め、6歳からピアノも加わり、クラシックとジャズを学んだとのこと。おそらく神童だったのでしょう。ルックスもとてもスタイリッシュで、カリスマ性を感じます。
 この日、ライブ会場には多くのパリの人々が詰めかけており、100人ほどは収容できると思われる会場は満員で、熱気がムンムンしていました。若者から比較的年配の方まで幅広い年齢層の人々が集まっていました。

 この日の演奏は、一部アルバムからの曲でした。アルバムの1曲目の♪子供の情景〜見知らぬ国と人々についてはシューマンの曲で、その繊細なメロディーがトーマス・エンコのピアノにとてもマッチしていました。
 この日の演奏の中で最も良かったのは、♪I’ll Remember April。これまでに多くのジャズ・ミュージシャンたちが吹き込んできたスタンダード・ナンバーで、私は個人的にバド・パウエルのアップテンポな演奏が大好きです。この曲でトーマス・エンコはヴァイオリンを手にし、ベースとのペアで演奏します。このトーマス・エンコのヴァイオリンの演奏がとても素晴らしいものでした。ヴァイオリンの弦をちょんちょんとこするような小気味よい軽妙な弾き方が、とても美しい音色を引き出していました。この曲を聴いて私のテンションは一気に上がり、もう涙が溢れるくらいの感動に浸ってしまいました。パリに来て良かったと思った瞬間です。

パリのカフェと広場

 パリの街の最大の特徴は何と言ってもカフェの多さでしょう。パリにカフェが多いことはもちろん知っていましたが、正直、ここまであちこちにカフェがあるとは思いませんでした。とにかく、ありとあらゆるストリートにカフェがあるのです。

 カフェは地域のコミュニティの場としてうまく機能しているように見受けられます。昼間でもカフェでボーッと時間をつぶす人があり、夜になると仕事帰りの多くの人々がカフェに集まり談笑しています。日本でもこんな素敵なカフェがあちこちにあれば、仕事を早く切り上げて外に繰り出そうという気になるに違いありません。
 パリのカフェがこれだけ栄えているのは、パリの街の構造にも大きな要因があるように思います。先に触れたように、パリは中心部にこそ人が居住しているという特徴があります。大きなオフィスビルは中心部に立地するのではなく、むしろパリの郊外に当たる地域に位置しています。だから、パリの中心部にあるカフェには、近くに居住する地元の人たちが集まるわけです。
 都市の中心部に住むというのは、我々からすると羨ましい限りかと思いますが、その反面、街の中心部に住むことはそれなりの不便を背負うことも意味するのです。古い建物ですから、水漏れなど水回りの面の不具合が生じるでしょうし、エレベータもそんなに立派なものではありません。しかし、パリの人々はそういう不便さを代償として受け容れながら、都市の中心部に住み、街を守り続けているという面もあるのです。建物を取り壊して新しい建物に置き換えたいという誘惑にも打ち克たなければなりません。そういう涙ぐましい努力なしでは、街の美しさや魅力は保てないのです。
 また、パリ市内には至る所に広場が存在します。

 日本であれば、大きな広場があっても土地の有効活用とかいった理屈であっという間に立派なビルが建ってしまいそうですが、パリではこうした広大な空間が決して無駄とは認識されず、こうした広場こそ重要な機能を果たしています。きれいに手入れされた庭園であるパレ・ロワイヤルなども常時人が出入りできるようになっています。

 こうした広場は人々の憩いの場になっています。そして、象徴的な像が建っていたりして、人々の精神的支柱としても機能しています。
 カフェと広場を核としたコミュニティの形成という点に、パリの活気の源泉があるように感じます。

パリについての感想

 パリの街の原型は19世紀後半のナポレオン3世時代にパリ改造計画を推進したジョルジュ・オスマンによって作られたことは良く知られています。パリ改造以前のパリは、喜安朗氏の『パリの聖月曜日』にも描かれているように、貧民の多く住む乱れた不潔な街でした。

パリの聖月曜日―19世紀都市騒乱の舞台裏 (岩波現代文庫)

パリの聖月曜日―19世紀都市騒乱の舞台裏 (岩波現代文庫)

 そういう街に巨額を投じて大改造した結果、今では世界中の観光客を魅了する都市が生まれたわけです。こうした荒治療によって、かつてのパリのコミュニティが一時的に壊れたことは想像に難くありません。しかし、今でも当時の建物が数多く残り、調和のとれた街並みが保たれており、それが今日大きな魅力を放っているのです。カフェや広場を中心とする新たなコミュニティもその後形成されてきたように見受けられます。
 思うに、本気で魅力ある街を作ろうとするのであれば、これくらいの荒治療は必要なのでしょう。皮肉なことに、民主主義が発達すればするほど、街づくりに対する人々の合意形成は困難になっていき、荒治療も難しくなっていきます。今の東京の街並みを見ると、これが民主主義の発達した国の典型的な風景なのだなと思ってしまいます。土地の所有者各々が好き勝手な建物を建て、ぐちゃぐちゃな街が出来上がってしまうわけです。共産党独裁の続く中国ならいざ知らず、民主主義の発達した我が国においては、こうした状況はもはやどうすることもできません。ナポレオン3世の帝政時代にこうした荒治療をやり遂げることができたフランスという国が羨ましく思えなりません。
 ただ、パリの街づくりが我が国の街づくりにとって参考になる面も多いにあるように思いました。カフェを中心とする賑わいの場の創出というのがその一つとして挙げられます。気軽に近所の人が集い談笑するような魅力的な空間として、カフェは大きな機能を果たすことができるように思います。今回はパリのカフェをじっくり見て回ることができませんでしたが、次回パリを訪れる機会には、モンパルナスやサン・ジェルマン・デ・プレ近辺のカフェをもっと良く見てみたいと思います。