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カート・ヴォネガット「母なる夜」

 ヴォネガットの作品を手に取るのは実は初めてです。池澤夏樹氏の翻訳というところにも惹かれたのですが、ナチスの宣伝放送を担いながらアメリカのスパイでもあったという設定に魅力を感じたことが、本書を手にした最大の要因です。

 一人称の主人公ハワード・キャンベル・ジュニアはアメリカ人でありながら、ドイツで劇作家として生計を立てていた。やがてドイツ人の妻と結婚するが、ある日公園でアメリカの少佐に声をかけられ、アメリカのスパイとなる。

 戦争が終わるとハワードはイスラエルユダヤ人たちに負われる身となる。彼が戦時中アメリカのスパイだったことが証明されればよかったのだが、不幸なことに、彼がアメリカのスパイであることを知る人間はほとんどいなかったのだ。ハワードは深く思い悩む。

 ハワードの妻ヘルガはクリミアに慰問に行った際に命を落としたとされていたが、ある日、ヘルガが男に連れられて彼の前に姿を現した。しかし、それはヘルガの妹だった。実は彼に巧みに近づいてきたのはソビエトの連中だった。アメリカとナチスの関係を暴こうとするソビエトにとって好都合だったのだ。

 ハワードは間一髪でソビエトに連れて行かれるのを免れたが、自らイスラエルへの引き渡しを希望し、イスラエルの監獄に入ったのだった。彼の自由意志により、、、。


 ヴォネガットの作品の中で最初にこの作品を手にしたことはもしかするとあまり賢明な選択ではなかったのかもしれません。ヴォネガットといえばSFタッチの作風が有名ですが、この作品にはSF的な要素はありません。自分の立場に思い悩み葛藤する元スパイが滑稽な筆致で描かれているのみです。

 しかし、ナチス問題という重厚なテーマをさらっと描くことができるのは、フィクションの最大のメリットです。アメリカのスパイであるという複雑な設定の主人公を通じて、ナチスの協力者たちが終戦後に取り憑かれた精神の葛藤を実にうまく表現しているように思います。

 文学の持つ面白さを堪能できる作品であることは間違いありません。