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事業仕分け 狙いは分かるが手法が問題だ

政治

 11/13読売新聞に「事業仕分け 狙いは分かるが手法が問題だ」と題する社説が掲載されています。

 政府の行政刷新会議事業仕分けを開始し、来年度予算の概算要求から無駄を洗い出す作業を本格化させている。
(略)
 長年にわたって硬直化した予算配分に、メリハリをつけようとする意図は理解できる。
(略)
 公開された事業仕分けで、仕分け人たちが、府省の担当者を一方的にやりこめるような場面が相次いでいるのはいただけない。
「傍聴者とネット中継を意識したパフォーマンスが過ぎる」との批判が出るのもやむを得まい。
 1案件当たりの割り当てもわずか1時間である。これでは、まともな議論は不可能だ。対象事業数を減らすなどして、時間をもっとかける工夫が欠かせない。
 国の個別予算の当否に、民間人や外国人が直接かかわることを疑問視する声もある。仕分け人としての正式辞令は交付されていないという。事業仕分けの正当性が問われかねない。
 スタートしたばかりの事業仕分けだが、早くも課題が浮き彫りになった。鳩山内閣は、手法と効果を検証しながら、あと7日間の日程を慎重に進める必要がある。

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20091112-OYT1T01414.htm

 私も基本的にこの社説に共感を覚えます。

 文明と野蛮が紙一重であることを鮮やかに描き出したレヴィ・ストロースが先般亡くなったばかりですが、行政刷新会議の「事業仕分け」作業を見ていると、文明人は野蛮へといとも簡単に転落してしまうのだなぁという印象をつくづく持ってしまいます。

 この事業仕分けのからくりは簡単です。おそらく財務省があらかじめ仕分けチームに対して切るべきポイントをすり込んでいるのでしょう。ですから、選定された事業もこれまで財務省が切りたくても切れなかった類のものが数多く含まれているわけで、そういうものは短時間の公開ヒアリングを経てばっさりと切られる結果になるわけです。

 不必要な事業は廃止するということは、繰り返すまでもなく自明なことです。その事業が必要かどうかは、事業を所管する省庁の大臣と財務大臣とがよく議論し、最後は総理の決断で決すれば済む話です。どういう判断で事業を存続あるいは廃止したかについては、可能な限りで明らかにするべきでしょう。それでも国民の納得が得られないのであれば、国民の代表たる国会議員が国会の予算委員会でしっかりと議論し、予算の是非を問えばよいはずです。それをあえて、行政刷新会議という得体の知れない組織をかませ、明らかに一段高い位置から各省庁の担当者らを詰め倒すという「儀式」をなぜ実施する必要があるのでしょうか?下品なパフォーマンス以外の何物でもありません。

 このパフォーマンスを高い「透明性」の証として捉える向きがあるかもしれませんが、そうした指摘は当たっていません。あの「公開裁判」を見ても、例えば、財務省が裏でどんな振り付けをしているかは全く見えてこないでしょう。見えるのは表面的なごく一部の現象だけであるにもかかわらず、それをもってすべてがオープンになったかのような錯覚を国民に与えてしまうことは、もっとも危険ではないでしょうか。

 この「事業仕分け」には他にも問題があります。その一例をあげれば、メンバーの中に外国人が入っている点です。

「公務員に関する当然の法理として公権力の行使又は公の意思の形成への参画に携わる公務員となるためには日本国籍を必要とする」

 これは憲法上の当然の要請であり、だからこそ「当然の法理」を言われているのです。「事業仕分け」のメンバーは公務員の発令は受けていないのかもしれませんが、各省庁の事業の存続や廃止に事実上大きな影響力を振るっており、公務員以上に「公権力」を行使しているのです。こんな国家にとって重要な権限を他の国の国籍を持つ人間に行使させている国なんて見たことがありません。

 政治主導というのであれば、事業仕分けの説明も国会議員自身がやるべきです。そこで政治家同士の真剣な議論を闘わせることこそが政治主導の証でしょう。国会では役人の答弁を禁止しようとしておきながら、こういう「公開裁判」のときだけ役人を「被告席」に登場させるというのは、なんとも卑劣なやり方に見えてなりません。

 かつてのヨーロッパの都市では絞首刑が庶民の好む伝統的なレジャーでした。絞首刑の対象が悪党であればあるほど、絞首刑は盛り上がりを見せました。闘牛や闘鶏に対する熱狂も、絞首刑に対する熱狂の延長です。市民社会の出発点とされるフランス革命ですら、ギロチンによる公開処刑の上に成り立っているのです。我々が文明社会と信じ込んでいる社会も、実は少し前までは信じられない「野蛮」の上に成り立っていたのです。

 文明社会は「野蛮」を徹底的に押し殺すことに成功したかに見えますが、水面下に潜んでいる「野蛮」は時にふっと表に顔を出します。戦争という場面がその典型です。グアンタナモ基地では信じられない虐待が繰り広げられました。広島や長崎では原爆によっていとも簡単に多くの命が消されました。

 私には最近の日本社会では、大衆的な「野蛮」が目に付くようになってきているように見受けられます。小泉政権下での郵政選挙では、郵政に反対する議員の選挙区に次々と「刺客」が送り込まれ、血みどろの対決が繰り広げられるのを多くの国民が熱狂しました。あれだけの大差の選挙結果だったにもかかわらず、今となっては、多くの人たちが「あの選挙は何だったんだ?」と言っている状況は、ある種の恐ろしさを感じてしまいます。

 今の「事業仕分け」を見ていると、何か現代版の文化大革命を見ているような気がします。文化大革命の際は、紅衛兵毛沢東の名の下に自分の教師たちに対して公開で糾弾を始めます。人々は自分が糾弾されないために糾弾する側に付いて身を守ったわけです。郵政選挙のときもこれと同じ構図が展開され、郵政民営化賛成と言わないと「抵抗勢力」というレッテルを貼られてしまうという恐怖感に覆われ、多くの自民党議員は郵政民営化に流れていきました。

 不必要な事業は廃止すべきというテーゼは誰も反対しません。問題はそのプロセスです。繰り返しになりますが、政治主導を見せたいのであれば、政治家同士が議論を公開で闘わせる場面を国民にさらけ出し、その結果で事業の存続や廃止を決めればよいのです。

 時折顔を見せる文明社会における「野蛮」。これをどう押さえ込むかに、第二のファシズムを生まないための文明の知恵が試されています。