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「宋姉妹 〜中国を支配した華麗なる一族〜」

宋姉妹―中国を支配した華麗なる一族 (角川文庫)

宋姉妹―中国を支配した華麗なる一族 (角川文庫)

「昔、中国に三人の姉妹がいた。ひとりは金を愛し、ひとりは権力を愛し、ひとりは中国を愛した・・・・」(本書p9)

 金を愛したのが財閥の子息と結婚した長女の宋靄齢(あいれい)、権力を愛したのが蒋介石と結婚した宋美齢(びれい)、そして中国を愛したのが孫文の夫人である宋慶齢(けいれい)であることは言うまでもありません。この3姉妹が中国の歴史の中でいかに波瀾万丈の生涯を送り、しかも中国の進む方向性にいかに大きな影響を与えたかは、本書を読めば手に取るようによく分かります。

 3姉妹の父親の宋耀如は、アメリカに渡りキリスト教の洗礼を受け、聖書の出版で成功を収めます。やがて中国に戻った宋耀如には三人の姉妹のほかに三人の兄弟もおり、子どもたちすべてをアメリカに留学させます。三姉妹はジョージア州のウエスレイアン大学に学びます。

 三姉妹はやがて政治の道に引き込まれていくことになります。それは、父親の宋耀如が孫文を支援していたためです。次女の慶齢は孫文の秘書を務めたことがきっかけで、やがて孫文と結婚します。親子ほどの年齢の開きがある結婚です。

 孫文は1912年に中華民国の臨時大総統に就任していましたが、袁世凱との戦いに敗れ日本へ亡命します。ところが、第一次世界大戦の最中、日本は中国に対し「二十一箇条の要求」を突きつけます。日本に頼ろうとしていた孫文は、中国を対等の国家として扱ってくれるロシアの支援を期待するようになります。

 やがて1924年に国民党は国共合作の方針を決めます。しかし孫文はまもなく病気で命を落とすことになります。孫文と慶齢の結婚生活は10年にも満たず終焉しますが、慶齢はその後亡くなるまで、孫文の妻として捉えられることになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E6%85%B6%E9%BD%A2宋慶齢
 孫文亡き後の国民党の中で頭角を現していったのが蒋介石です。蒋介石率いる国民革命軍は北伐を開始します。国民政府は武漢に置かれます。ところが、蒋介石は反共クーデターに踏み切り、南京で国民政府の樹立を宣言します。

 こうした中、国共合作の堅持を訴える少数者の中に慶齢がいました。そんな中、慶齢はある計画の遂行を試みます。それは蒋介石の統治下にあった上海にいて財政部長の要職にあった弟の子文を武漢に連れてこようと試みたのです。しかし、これに反対したのが長女の靄齢と三女の美齢です。靄齢は既に財閥の御曹司の孔祥熙と結婚し、孔祥熙孫文の義兄という地位を生かして国民党の有力者となっていました。靄齢と美齢の反対により、慶齢の計画は頓挫してしまいます。つまり、靄齢と美齢は蒋介石南京政府に中国の行く末を託すことにしたわけです。この一件により、三姉妹の間には決定的な亀裂が走ることになったのです。

 やがて武漢政府も共産党員の追放を決め、国共合作は崩壊します。慶齢は武漢を離れ、ロシアに向かいます。慶齢が頼れるのはソビエトのみだったのです。しかし、スターリン蒋介石がやりたいようにやらせようとしていることに慶齢は失望します。

 さらに慶齢に追い打ちをかけたのが、蒋介石と美齢の結婚です。蒋介石は当初慶齢に対し結婚を申し込んできたようですが、これを愛情ではなく政治だと考えた慶齢は蒋介石の申し出を断ります。このため、美齢が蒋介石と結ばれることになったのです。この結婚の背後には、一族による利権獲得を望む靄齢の勧めがあったようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E7%BE%8E%E9%BD%A2宋美齢
 こうして、宋一族による支配体制が確立されます。ただし、慶齢のみを例外として・・・。慶齢は以後、この「宋王朝」との対決姿勢を崩すことはありませんでした。

 1936年、西安事変が勃発します。蒋介石が張学良に監禁され、国民党が共産党との戦いを停止し、一致して抗日に当たるように迫ったのです。この事変は共産党側にとっても青天の霹靂だったようですが、慶齢・美齢ともにこの事件を平和裡に解決しようという意志が一致したのです。美齢は西安に乗り込み、周恩来と会談を重ね、蒋介石は解放されます。こうして内戦の危機は回避されたわけですが、この一件で、美齢の政治的存在感が大きくクローズアップされたのです。

 三姉妹はこの後、顔を合わせて人々の前に登場する機会がありました。それは日本軍の爆撃を受けていた重慶への慰問の際です。三姉妹が団結して抗日に立ち上がった姿は世界にも印象づけられましたが、慶齢はその後独り香港に帰っていきます。

 その後、宋一族による支配はますます腐敗が強まっていきます。また、国民党と共産党との関係も再び離れつつありました。美齢は抗日戦線への協力を求めるためアメリカを訪問し、各地で歓待を受けます。マスコミでも美齢は救国の天使として描かれることになります。それは、美齢がキリスト教信者であったことも大きく影響していました。

 美齢はルーズベルトチャーチル蒋介石が会したカイロ会談でも三巨頭と肩を並べて登場します。蒋介石の通訳でありながら、正確に通訳しているのか自分の主張なのかどうかはっきりしなかったようです。

 他方、アメリカは「宋一族」の腐敗を次第に懸念し始めます。ソビエトが対日参戦する今となっては、アメリカにとっての中国の戦略的重要性は低下したからです。宋一族には厳しいまなざしが向けられることになります。結局、靄齢と美齢らは蒋介石にも見放されて中国を離れることになります。

 美齢は再びアメリカを訪問しますが、今度の訪問は失敗に終わります。他方、1949年の中華人民共和国の成立の際、毛沢東のかたわらには慶齢の姿がありました。慶齢は孫文の未完の革命を中国共産党の中に見出そうとしたのです。

 文化大革命は慶齢の身にも降りかかってきます。蒋介石の義理の姉であり、共産党員ではなかった慶齢に対して、紅衛兵の攻撃が及ぶようになったのですが、やがて4人組の失脚によって文化大革命は終わります。

 三姉妹の中で唯一中国大陸に残った慶齢は、美齢の帰国を待ち望んでいたと言います。結局、それは叶わず、1981年宋慶齢は88年の生涯を閉じます。その2週間前に、慶齢は希望していた共産党への入党が認められたとのことです。また、中国国家名誉主席という地位も与えられます。これは台湾への架け橋を意味するものでありました。

 慶齢は孫文と墓を共にするのではなく、宋耀如夫妻の娘として、姉妹や兄弟たちと同じ墓に入ることを選択します・・・。


 本書では、激動の時代を生き、複雑な政治情勢の中で姉妹の仲がずたずたに裂かれてしまった三姉妹の壮絶な生き様がよく描かれています。本書のもとになったのは1994年にNHKで放送されたドキュメンタリー・ドラマだそうです。取材班は当時健在だった美齢へのインタビューを望み、何度もアプローチを試みたものの、結局インタビューは叶わなかったとのことです。メディアを巧みに活用して欧米の自らへの支援を求めてきた美齢が、晩年、メディアを頑なに拒絶する姿というのは、大いなる歴史の皮肉と言えるでしょう。

 それにしても、中国史における宋姉妹の影響力は大変大きなものであることが分かります。我が国の世界史の授業ではそれほど取り上げられることはありませんが、本書のような切り口で中国史を見てみると、実に生き生きと中国史が見えてくるのは、大変興味深い事実です。

 また、一族の情や離反によって歴史が動かされているのだという事実は、結局、歴史というものは所詮一人一人の人間が作りあげた結果に過ぎないということも改めて実感させられました。

 実に面白いノンフィクションでした。