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ティム・ワイナー「CIA秘録」上巻

CIA秘録上

CIA秘録上

 CIAといえば、世界中を股にかけた諜報・スパイ活動を展開するとともに、時には自ら戦闘行為に深く足を突っ込む底知れぬ闇を抱えた組織であり、数多くの秘密作戦を巧妙に遂行してきたといったイメージを多くの人々は持っていると思いますが、この本を読むと、これまで抱いていた百戦錬磨のCIA像はがらがらと崩れ落ちます。最近公開された過去の公文書をひもときながら一つ一つ事実関係を検証しつつ執筆された本書からは、CIAの情報収集能力が如何にお粗末であるかや、これまでの大統領に対して数多くの虚偽の報告を行い大統領からの信頼を失っていったことが伝わってきます。過去のCIAの業績とされている案件も、実は裏ではCIAのお粗末な諜報活動の中で結果的にCIAがささやかな貢献をしていたに過ぎないことなども分かります。本書を執筆したのはティム・ワイナーというニューヨーク・タイムズの記者ですが、本書は単なるジャーナリスティックな本ではなく立派な歴史的研究です。

 今回は、まず上巻のみを取り上げて、備忘的に紹介してみたいと思います。

 CIAは第二次大戦中にスパイ活動を行ってきたOSSの廃止を受け、設立構想が浮上してきます。しかしながら、当初、トルーマン大統領はCIAを、

「大統領の下に毎日、世界中のニュースを送り届ける通信社にしておきたかったのだ。」

 トルーマンはやがてスターリンソ連を世界の悪と確信するようになり、トルーマンドクトリンを打ち出します。そして、1947年9月にCIAは誕生します。そして、CIAはイタリアの選挙への介入を実行に移します。為替安定基金から拠出された資金はイタリアの政治家たちに流れていき、結局、イタリアのキリスト教民主党共産主義者を排除する政権を樹立することになります。

 1948年9月に、フランク・ウィズナーがCIAの秘密工作の責任者の地位に就きます。ウィズナーは以後のCIAの汚点の歴史の中で中心的な役割を果たす人物です。彼はCIA長官に対しても十分な情報を上げず、自らの決定で秘密工作を遂行していきます。ウィズナーは海外の拠点を増やすべく、有能な人材の収集に尽力します。そして、マーシャル・プランにおいて認められた潤沢な資金を使って活動を進めていきます。そして、1949年にCIA法が議会を通過すると、CIAには広範な権限が付与され、CIAは国内での秘密警察活動のようなものを除いて何でもできる組織になっていきます。リチャード・ニクソンが後年に語った、

「もしそれが秘密なら、それは合法だということだ」

という言葉にCIAの縦横無尽ぶりが表れています。

 しかし、その後のCIAの作戦はことごとく裏目に出ていくことになります。ここからが本書の面白いところです。

 ウクライナ人たちを鉄のカーテンの向こう側に送り込む作戦では、CIAが送り込んだ工作員たちのほとんどがソ連の捕虜となったにもかかわらず、ソ連側は捕虜を利用してニセ情報をCIA側に流し、更なる資金や武器を送り込みませます。アルバニアでもアルバニア工作員を送り込んだものの、パラシュートで領内に降下した途端に秘密警察に捕まるという始末。実は、CIAと緊密に連絡をとりあっていたイギリス諜報機関の友人キム・フィルビー(彼こそがル・カレの『ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ』におけるもぐらのモデルです。)がソ連のスパイであり、アルバニアの作戦がソ連側に筒抜けになっていたのです。

 朝鮮戦争においては、CIAは中国で何が起こっているかほとんど知らない有様で、朝鮮戦争が勃発した時、CIAがトルーマン大統領に提出した報告の90%は国務省のファイルの焼き直しであり、残りは意味のない評論であったとのこと。中国軍が実際に集結している状況下においても、CIAは中国の大規模な介入はなさそうだという情報を繰り返していました。結果的には、30万人の中国軍が猛烈な勢いで攻撃をしかけてくることになったわけです。さらにCIAは、中国国内には大きな抵抗勢力があると国民党からニセ情報を流され、その勢力に向けた武器や弾薬を購入したものの、結局、そういう勢力はいなかったことが分かります。この架空の抵抗勢力に送り込まれるために、何千人もの朝鮮人や中国人が北朝鮮に送り込まれ、多大な犠牲者を出すことになります。

 アイゼンハワー時代になると、アレン・ダレスがCIA長官に就任します。アイゼンハワー大統領は核爆弾と秘密工作の2つに重点を置く戦略をとり、アメリカの命運をこの2つに賭けることになります。

 この時期、CIAが遂行するクーデターが2つ成功します。1つはイランのモサデク政権の転覆です。モサデクはイギリスとの間で石油権益を巡る交渉でもめており、イギリスはモサデク政権転覆を模索します。アメリカは表向きモサデク政権を支持していたにもかかわらず、CIAはモサデク政権転覆に走り始め、ザヘディという退役少将を立てようとします。しかし、計画は実行前にモサデク側に伝わってしまいます。また、実際にはザヘディには配下の部下がおらず、クーデターを実行する部隊がないことに気がつきます。クーデターは失敗に終わったかに見えましたが、CIAが雇った暴徒たちがテヘランに集まり、自然発生的にモサデク反対のスローガンの下でデモが盛り上がり始め、結果的にモサデク政権は倒れることになります。これがCIAの歴史上最大の勝利であるわけですが、この事案については、次のような評価が的を得ているように思われます。

「一見、見事な成功を収めたようだが、問題は、それによって生み出されたCIAの力に対して、現実離れした印象が持たれたことだった。」

 それからもう一つの成功事例として挙げられるのは、グアテマラのアルベンス大統領に対するクーデターです。CIAはグアテマラにスパイさえ置いていなかったにもかかわらず、アルマス大佐という人物を権力の座につけるよう図ります。この計画がうまくいったのは、ポーランドのアメリカのスパイがアルフヘムという貨物船がチェコ製の武器をアルベンス政権に運ぼうとしているのを見つけたためとされていますが、本書によれば、CIAは船を取り逃がしており、アルフヘムが無事グアテマラに到着するまでの間に懸命な捜索が続けられたそうです。しかし、この武器の到着を契機に、アメリカ海軍はグアテマラを海上封鎖するとともに、爆撃を行います。アルマス大佐はようやく攻撃に着手しますが、敗北寸前の状態となり、現地の米大使館はCIAに対して爆撃を要請します。CIAはこの作戦は失敗に終わると見込んでいましたが、大富豪の支援を得て飛行機を送り込み爆撃を実行します。結局、アルマス大佐は権力の座に就くことになりますが、CIAの指導者たちはこの作戦を成功と見ていないところが興味深い点です。しかも、この作戦ではアルマス大佐側に多くの犠牲者を出していたにもかかわらず、CIAは大統領に対してわずか1人の犠牲だと虚偽の報告をしたとのことで、以降、CIAは海外での秘密工作を取り繕うようになります。

 日本での有末精三や児玉誉士夫らを使った諜報活動も興味深いものです。そしてCIAはA級戦犯だった岸信介を援助することによって、彼を支配政党トップの座に就け、首相の座にまで上り詰めさせたのです。岸はニューズウィーク誌の東京支局長から英語のレッスンを受けるとともに、同誌の外信部長のハリー・カーンを通してアメリカの政治家に食い込んでいきます。そして、アメリカは岸に政治的支援を与える代わりに、日本に軍事基地を維持し、核兵器を配備することを認めさせようと画策します。こうして岸はCIAと二人三脚で安全保障の枠組みを構築していったのです。
 本書で興味深いのは、CIAによる資金提供は、信用できるビジネスマンを仲介役に使っており、こうした仲介役の一人がロッキード社の役員だったとのこと。ロッキード事件の背景にもCIAの影がちらついてくることが分かります。

 ハンガリー動乱においてもCIAはお粗末さを露呈します。ハンガリーで群衆が共産主義政府に対して立ち上がった際、CIAは新聞情報以上の情報を有していませんでした。

ハンガリー蜂起に関するCIAの歴史は、秘密工作本部が「自ら求めて盲目」の状態にあった、と指摘している。」

 CIAはハンガリー国軍が民衆の側に付くと楽観していましたが、実際国軍はモスクワからの風向きを様子見をしていたに過ぎず、ソ連ハンガリーに大量の軍隊を送り込もうとしていたのです。結局、数万人の市民が命を落とします。ハンガリーの難民はウィーンのアメリカ大使館を取り囲み、なぜアメリカは支援してくれなかったのかと抗議します。

 インドネシアでもCIAの活動はちぐはぐです。スカルノ政権の共産主義化を懸念したアメリカはスカルノ政権の打倒を企てます。しかし、実際、インドネシア軍の指導部の中にはアメリカで訓練を受け親米であり反共であった人々も数多く含まれていました。にもかかわらず、CIAは反乱分子を支援したものの、結果的に作戦は失敗に終わります。アレン・ダレスはアイゼンハワー大統領に次のように報告せざるを得ませんでした。

「反乱勢力の指導者は、自分たちがなぜ戦っているのかを兵士に理解させることができなかったのです。これは非常に不思議な戦争でした。」

 この作戦がもたらした究極の効果は、インドネシア共産主義者の力を強めたことであると著者は述べています。
 CIAの秘密工作部長のウィズナーは、このインドネシアの作戦が終結すると「鬱性精神異常」と診断され、電気ショックによる治療を受け、その後は聡明さも大胆さも失っていったとのことです。

 キューバ情勢についてもCIAは適切な分析をすることができず、当初はカストロに武器と資金を提供してもよいと主張するものさえあったとのことです。アイゼンハワー大統領は退任を前にして、

「わが国の諜報機関の構造には欠陥がある。」

と述べ、自分は後継者に対して「負の遺産」を残すことになるだろうと言ったとのことです。

 さて、話はピッグズ湾事件に移ります。ウィズナーの後を継いで秘密工作本部長になったビッセルは、ピッグズ湾を上陸ポイントとする計画を進めます。しかし、ビッセルはいざというときに、静かなクーデターを望む大統領の意向に沿おうと、派遣する米軍機の数を半分に減らしてしまいます。米軍機はキューバの飛行場を攻撃し、CIAの舞台がピッグズ湾に向かいます。CIAは表向き、爆撃はキューバ空軍の亡命兵士によるものだと説明します。しかし、その後、国務長官からCIAの飛行機はキューバの飛行場や港湾を攻撃してはならないとされ、結局、CIAはCIAのキューバ人を見殺しにする形になります。キューバ人たちの乗るCIAの船はキューバ側の攻撃を受け、猛烈な火柱を上げて炎上します。キューバとCIAのそれぞれのキューバ人同士の凄惨な戦いの末、CIAのキューバ人部隊の多くが捕虜となり、多大な犠牲者も生みます。1961年にアレン・ダレスはCIA長官を辞し、その後ビッセルも退任します。この事案は、大統領とCIAとの間の信頼関係を決定的に壊すことになったのです。

 怒りに満ちたケネディはCIAを破壊することも考えていたようですが、結局、ジョン・マコーンが次期CIA長官となります。

 キューバのミサイル危機の際も、CIAは秘密工作に忙殺されていたため、キューバの脅威を気がついていなかったようです。唯一マコーンだけがソ連カストロ核兵器を与えることを危惧していたとのこと。当時、アメリカは偵察機U2キューバ上空に飛ばしていましたが、そこでキューバに地対空ミサイルが配備されていることが分かります。このため、ケネディU2キューバ領空通過を制限したのですが、実はこれによって偵察が盲点となった空白期間が生まれ、キューバに核サイトの建設が進められたのです。CIAは再び誤った方向を大統領に行います。

「アメリカに対して使える核攻撃力をキューバの地に配備することは、ソ連の政策と相容れない。」

 これに異議を唱えたのはマコーンだけでした。ところが、キューバ人スパイから、ソ連のトラクタートレーラーが太い電柱ほどの大きさの謎の貨物を帆布に包んで運んでいたとの情報が寄せられます。ソ連の核弾頭はアメリカがU2の偵察を止めていたときにキューバに運び込まれたのです。CIAはそれから10日後にキューバのミサイルを発見しますが、当時、権力の座にいた者は誰もそれを勝利とは見なしていなかったのは当然でしょう。ソ連キューバ核兵器を持ち込むことはないと思いこんでいたCIAのせいで、アメリカは脅威にさらされることになってしまったのです。
 ケネディはマコーンの進言によりキューバを封鎖することをテレビ演説で表明します。封鎖を受けてソ連キューバ水域での船を停止又は逆戻りさせます。そして、アメリカがキューバを侵攻しないことを約束すればソ連はミサイルを撤去すると伝えてきます。さらに、ソ連はアメリカがトルコからロケットを撤去すればキューバから攻撃兵器を引き揚げると伝えてきます。この取引は極秘に行われました。

 ケネディ大統領暗殺に際しても、CIAは大きなチョンボを犯します。暗殺犯とされるオズワルドがメキシコのソ連大使館を訪ねていたことはCIAは前もって知っていたにもかかわらず、大統領一行の車のルートにそういう人物が張り込んでいたということになります。ジョンソン大統領が語った次の言葉が、この事件の闇の深さとCIAとの関連性を表しています。

ケネディカストロを殺ろうとしていたが、カストロのほうが先に彼を殺ってしまった」

 そして最後はベトナム戦争におけるCIAの役回りです。アメリカは当初、共産主義と戦う人物としてゴ・ディン・ディエムを支援してたのですが、やがてディエムの暗殺を模索するようになります。マコーンは次のような比喩を用いて大統領に慎重な対応を説得します。

「大統領、もし私が野球チームのマネージャーで、ピッチャーがたった一人しかいないとしたら、よいピッチャーであろうとなかろうと、そのピッチャーをマウンドに立たせておくでしょう。」

 ディエムな残虐な手法は確かに多くの人々から嫌われていたことは事実でしたが、その人物を殺すことについては、政府内でも意見が分かれていました。しかし、結局クーデターは実行され、暗殺も達成されます。CIAはこうして殺人の道具に化してしまっていたのです。

 その後ジョンソン大統領は、ケネディ大統領の暗殺はディエムに代わって神が行った天罰だと繰り返します。ジョンソン大統領は、ベトナムで全面攻勢に出るべきか、撤退すべきかを決めかね、夜も眠れないほどだったようです。ジョンソン大統領はやがてCIAとのコミュニケーションを閉ざすようになります。ベトナム戦争トンキン湾決議によって公認されます。これはアメリカの船が北ベトナムから言われなき攻撃を受けたというねつ造によって開始されたものでした。トンキン湾で米海軍の2隻の駆逐艦はレーダーにぼんやりとした染みのようなものを見つけ、攻撃を開始します。2隻はパニック状態で砲弾を撃ちまくったため、米海軍は多数の魚雷の存在を誤認することになります。

「アメリカの艦船は自分たちの影に怯えていたのである。」

 こうして大統領は北ベトナムの海軍基地に対する爆撃の開始を命じます。CIAがきちんと機能していればこうした虚偽報告は数時間も通用しなかっただろうと著者は述べています。
 ジョンソン大統領は4年後に次のように述べています。

「いまいましいが、あのばかな水兵たちは飛び魚を撃っていただけだった」


 ・・・というのが上巻の主な内容なのですが、CIAに対するイメージは大きな転換を迫られます。巧妙に国際社会の裏側にアンテナを張り巡らせ、頭脳明晰に行動するCIAというイメージはどうやらだいぶ違っているようです。時の大統領たちも前任から受け継がれたCIAというやっかいぶつをどう扱うかについて頭を悩ませていたことがよく分かります。

 そして、秘密工作活動に力を注げば注ぐほど、本務であるはずの諜報活動がおろそかになるというスパイラルにはまっていったCIAのもろさがよく伝わってきます。そして、成功例であるはずのイランやグアテマラの作戦においても、その過程を見ると成功からはほど遠い有様であったことがよく分かります。下手をすれば、ケネディ暗殺事件ですら、CIAの失態に起因するものである可能性すら本書からは伝わってきます。

 こうしたアメリカの諜報活動がCIAの担当レベルで実行され、しかも、大統領のみならずCIAの長官にすら上がっていない状況で実行されていたという事実は、背筋が寒くなる思いがします。時にはアメリカ政府の公式の立場と異なる動きをCIAがとることさえあったわけです。そうした動きが時には良くも悪くも現代政治を大きく形づくってしまうことさえあるわけです。

 そして、本書のすごいところは、こうした事実の分析が主に近年公開された公文書などにしっかりと基づいているという点です。そのリアリティあふれるエピソードの数々は、下手なスパイ小説よりも数倍面白いです。

 それにしても、アメリカの政治的ダイナミクスには本当に感服してしまいます。CIAの活動は本書でも正確に描かれているように確かにお粗末な面もたくさんあったわけですが、世界中の国際政治に目配せをするとともに、それを自らの都合の良いように動かしてしまおうと本気で考え実行してしまうわけですから、日本政府の諜報活動とは根本的にスケールが違います。もちろん、こうしたCIAの活動が良いとか、日本でもこういう活動をやるべきだと述べるつもりは毛頭ありませんが、ただ、私自身、世界全体を視野に入れて活動するCIAのスケールの大きさにはやはりある種の畏敬の念を持ってしまうことも否定できません。

 CIAというヴェールに包まれた存在を真っ正面から取り上げた近年まれに見る力作であり、下巻が楽しみです。


P.S.CIAのHPでは、本書に対するCIAの見解が掲載されています。
CIA Statement on “Legacy of Ashes” — Central Intelligence Agency
 この中でCIAはティム・ワイナーの本書における誤りを指摘してはいますが、正直、あまり説得力のあるものとはいえません。CIAの反論は結局、

Backed by selective citations, sweeping assertions, and a fascination with the negative, Weiner overlooks, minimizes, or distorts agency achievements.
ワイナーはCIAの業績を見逃し、軽視し、ねじ曲げている

といった情緒的な反論に過ぎず、説得力に欠けます。