読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる
映画、書評、ジャズなど

村上春樹「1Q84」

文学 村上春樹

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2

 発売以来なかなか手に入らなかった本書ですが、先週末に読了しました。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のように2つの物語が同時進行していくのですが、やがて2つの物語の接点が徐々に明らかになっていく構成は実に見事です。

 2つの物語の主人公は、予備校の数学教師のかたわら小説家を目指す天吾と、自然死と見せかけた殺しを得意とするインストラクター青豆です。天吾は自分が1才の頃と思われる時期に自分の母親が自分の父親とは違った男と抱擁しているシーンの映像をトラウマとして抱えています。天吾は幼少の頃に母親と別れ、NHKの集金人の父親1人の手で育てられるのですが、それは自分の実の父親ではないのではないかとの疑念を抱き続けます。他方、青豆も小さい頃に家族で新興宗教に入会し、信者の獲得に励む母親の後にくっついてまわった経験がつきまといます。この2人の関係が物語の後半になると明らかになっていきます。

 天吾はふかえりという少女が書いた「空気さなぎ」の物語を大幅に書き換え、その結果、ふかえりは文学新人賞を獲得します。ふかえりは一躍時の人になりますが、ふかえりは幼少時に新興宗教において性的虐待を受け、今は引退した文化人類学者の元でかくまわれており、ふかえりの父親は行方の知れない新興宗教の教祖だったのです。やがてふかえりは姿をくらましますが、天吾の元へ戻ってきて、2人は不思議な性的体験で結ばれます。

 他方、青豆は、インストラクターを務めるジムの客の老婦人から、新興宗教の教祖の殺害を請け負います。その教祖は信者の幼女たちを次々に手にかけ、心身ぼろぼろにしてしまっていたのです。その教祖の体をケアする名目で青豆は教祖に近づき、殺害を実行します。

 この物語のポイントは、村上氏によるこの新興宗教の描き方にあると言えるのではないかと思います。この新興宗教の教祖は、もともとは大学の教員で、当初は宗教色のないユートピアを構築していたのですが、やがて団体の分裂を経て、宗教色を持ち始めていきます。

 この教祖はやがて教団内で幼い少女たちに次々と手をかけていきます。だからこそ青豆は、正義感に燃えて教祖を殺害したわけです。

 ところが、村上氏は、この教祖を絶対的な悪として描ききっているようには見えません。青豆が教祖を殺害する前に教祖との間でいろいろなやりとりがなされますが、青豆はやりとりの中で教祖に同情すら覚えているかのようです。教祖が実は性欲とは別の次元で少女を交わっていたことを知るからです。絶対的な悪であるはずの教祖が、実は話をしてみると絶対的な悪人かどうか分からなくなってしまう、こういった善悪二項対立的な世界観を打ち崩す視線が本書を埋め尽くしています。

 例えば、正義感に燃えて人を殺し続けている青豆の行為だって、実は立派な殺人であることに変わりありません。教祖の殺害の後に自殺するためにピストルを手に入れる行為だって当然犯罪です。

 そして極めつけは、天吾とふかえりの交わりのシーンでしょう。天吾は無欲に小説家として大成することを目指しているうちに、ふかえりのゴーストライターの役割を引き受けてしまい、結果的に世間を欺くことになります。また、ふかえりの理解者として接しているうちに、ふかえりと性的関係を持ってしまうことになります。これも立派な犯罪でしょう。しかも、それは天吾の強欲の結果もたらされたものではなく、極めて自然な流れとしてそういう関係に陥ってしまうのです。

 一体、物語の登場人物中、誰が「善」で誰が「悪」だか分からなくなってしまう、この点にこの作品の重要なテーマが隠されていると言えるのではないでしょうか。

 おそらく本書を通じて村上氏が問いたかったのは、

二項対立的な善悪の思考方法への疑義

なのではないかと思います。1984年という年は、日本でもポストモダンが叫ばれ、ニューアカデミズムの旗手たちが出現した時代です。彼らは従来のモダンの枠組みをぶち壊すことで喝采を浴びていた、そんな時代です。

 近代という時代においては、思想的な対立構図は比較的はっきりしていたと言えます。例えば、自由主義共産主義という対立軸ははっきりしており、二項対立状況の下で善悪の議論がなされてきたわけです。ところが、ポストモダンの時代においては、二項対立状況は壊れつつあったわけです。何が善で何が悪であるかがぼやけてきた時代だと言えます。こうした流れはベルリンの壁の崩壊とソ連の崩壊によって決定づけられます。

 そんな状況の中であの忌まわしいオウム事件が勃発したのです。

 村上氏はオウム事件に多大なショックを受け、元信者に対してインタビューを試みたことはよく知られています。こうしたインタビューを通じて、村上氏はごく普通の人間が何かのきっかけで犯罪に走ってしまうということを認識したのでしょう。つまり、善と悪の境界線というのは、われわれが考えているよりもはるかに曖昧であり、脆いものだということです。

 村上氏は次のように述べています。

「罪を犯す人と犯さない人とを隔てる壁は我々が考えているより薄い。仮説の中に現実があり、現実の中に仮説がある。体制の中に反体制があり、反体制の中に体制がある。そのような現代社会のシステム全体を小説にしたかった。」(読売新聞2009/06/16)

 オウム真理教の信者として無差別殺人を犯した人々も、生まれつきの極悪人というわけではなく、実はついさっきまではありふれた生活を送っている一般人だったわけです。それが、何かをきっかけとして知らない間に別の世界に移動してしまい、気がつくと極悪人になってしまったわけです。誰しもがこのように何かをきっかけとして極悪人になってしまう可能性を持っているということでしょう。そんな曖昧で矛盾に満ちた社会に我々は生きているのだということを村上氏はこの物語の中で表現したかったに違いありません。

 それにしても、村上氏は小説というツールの持つ本当の力を知り尽くしているような気がします。同じようなメッセージをノンフィクションにおいて伝えようとしても、これはなかなか至難の業です。オウム信者に同情するかのような内容と受け止められれば、直ちに作家生命に関わってくる問題になりかねません。それを小説という形で表現すれば、作家はメッセージを比喩の世界の中で描くことができ、そのメッセージの受け止め方も読者の自由に委ねられているわけですから、逆に深く切り込んだメッセージを伝えることができるというわけです。フィクションがノンフィクションを越える瞬間といえるのではないでしょうか。

 なぜ村上氏がこのようなメッセージ性の強い小説を書かなければならなかったのか。それは、こう言えるのではないかと思います。つまり、現代社会は善と悪の境界線が曖昧化しているにもかかわらず、現実の国際社会ではむしろ、ある人々にとっての善を絶対的なものとふりかざして、他の人々と接しようとする風潮が強くなっているからであると。

 アメリカのブッシュ政権の中東政策や、パレスチナ問題の当事者の態度が正にその典型であると言えるでしょう。もちろんオウム真理教の信者たちもそうです。一時期吹き荒れた市場原理主義的発想からの主張もその1つの典型例に加えてもよいかもしれません。構造改革派が自分たちの思想と異なる人々に対して抵抗勢力とレッテルを貼った小泉・竹中的な手法もその典型例でしょう。

 そしてその背後には宗教の影がより色濃く反映するようになっています。ブッシュ大統領イラクフセイン政権に対する攻撃を始める際「神」を持ち出したことはよく知られています。パレスチナ戦争ももちろんその背後には宗教対立があります。つまり、これだけ科学の発達した現代社会において、実はますます宗教によって善悪の二項対立的な発想は強まっているのです。村上氏はこうした現状にも危機感を抱き、それがこの小説の創作の原動力になったのではないでしょうか。


 この小説は、これまでの村上作品の中でも一段とクオリティが高まっているような気がします。これまでの作品にないような強いメッセージ性が、この作品ではうまく生かされていますし、よく伝わってきます。

 また一歩、ノーベル文学賞に近づいたような気がします。