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ジョン・ル・カレ「寒い国から帰ってきたスパイ」

寒い国から帰ってきたスパイ (ハヤカワ文庫 NV 174)

寒い国から帰ってきたスパイ (ハヤカワ文庫 NV 174)

 本作品は1963年に原書が刊行されたル・カレの出世作です。

 リーメックという西側のスパイがベルリンの壁を越えようとして撃たれて死んだ。撃ったのは東側のムントという男だった。ムントに仕返しをするため、リーマスはある謀略にコミットすることになる。

 リーマスは突然仕事を首になり、図書館員に転じる。その生活ぶりはすさんだものだった。そこでリーマスはリズという若い女と知り合い、恋仲になる。リズは共産党員だった。その後リーマスはリズに別れを示唆した後、食料品屋の主人を不可解な状況で殴りつけ投獄される。この事件は新聞で大きく報じられた。

 刑務所から解放されたリーマスに寄ってきたのは東側のスパイだった。リーマスはスパイの誘いに乗ったふりをして東ドイツに連れて行かれる。そこで出てきたのはフィードラーというユダヤ人の男だった。ユダヤ人嫌いのムントはフィードラーと馬が合わず、ムントを憎んでいた。そこに目を付け、西側はフィードラーにムントを破滅させるように持って行く策略だった。

 ムントはフィードラーとリーマスを襲ったが、フィードラーはその前にムントの悪行を上層部に報告していた。結局、査問にかけられたのはムントだった。フィードラーはムントを西側のスパイだとして徹底的に攻撃した。しかし、その査問に招致されたのが、かつてリーマスと恋仲にあったリズだった。リズは優秀な共産党員として東ドイツに招待されており、この査問に招致されたのだった。

 急に査問に招致されたリズは、そこにかつて姿を消した恋人のリーマスがいることに動揺するが、リーマスが何の理由でそこにいるかを把握できず、リーマスとフィードラーにとって不利な証言をしてしまい、リーマスが西側の陰謀でムントを破滅させるために送り込まれたスパイであることが判明してしまう。査問の結果、罪をかぶせられたのはフィードラーとリーマスだった。フィードラーは処刑されることはほぼ間違いなかった。

 ところが、ここからが大どんでん返しで、実はムントはかつてイギリスにいた頃に買収された西側のスパイだった。それを察知し始めたフィードラーを殺害することがこの作戦の真の目的だったのだ。まずムントが西側のスパイであると思わせる、そしてそれをリズの証言で根底からひっくりかえすことによって、フィードラーを陥れ、ムントを救うという策略だったのだ。

 ムントによって当然のごとく解放されたリーマスとリズは西側への脱出を図る。ベルリンの壁を越えられるのに与えられた時間は90秒しかなかった。先に上るリーマスと、手こずるリズ。やがて四方八方から銃撃が浴びせられ、リズはリーマスの手から壁の東側に滑り落ちていく。リーマスは死んで横たわったリズのそばに立った。やがて銃弾がリーマスを捉えた・・・。


 真相が明らかになっていない前半部分は、何か雲を掴むようなもどかしさがあるのですが、後半に入り、徐々に全体像が明らかになってくると、俄然おもしろみが増してきます。敵はムントだと思っていたのが、最後の最後で味方であることが判明するという構成はもう見事としか言いようがありません。

 この作品から伝わってくるのは、東西のイデオロギー対立の愚かさです。フィードラーの次の言葉はそんな愚かさを象徴しています。

「ぼく自身、それでわれわれの目的が達せられるとわかれば、レストランに爆弾を仕掛けるのに躊躇しない。帳尻は後日決済できるのだから」

 ル・カレ自身、あるライフ誌のインタビューで執筆動機について次のように語っているそうです。

「僕がこの小説で、西欧自由主義国に示したかったもっとも重要で唯一のものは、個人は思想よりも大切だという考え方です。これを反共的な観念だとの一言で片付けてしまうのは、恐ろしい誤りです。どのような社会にあっても、大衆の利益のために個人を犠牲にして顧みない思想ほど危険なものはありません。現在闘われている冷戦を見て、もっとも痛切に感じられるアイロニーは、個人が銃弾同然に扱われている事実です。われわれは西欧デモクラシー体制の維持という大義名分で、その主義そのものの放棄を強いられているのが現状です。東西両陣営のスパイ戦指導者は、書類の上で作戦計画を樹立していますが、いつなんどき、同じその書類ひとつの力で、われわれ国民が弾薬に変えられないともかぎりません」(p332)

 本作品の最後で、作戦のためにリズに近づいたリーマスに、銃弾に倒れたリズを置いて西側に逃げ帰るのではなく、リズの遺体の横で自らも銃弾に倒れる道を選択させたのは、どんな冷酷なスパイにも人間性は残されているのだというル・カレの願望の現れと言えるのではないでしょうか。冷酷で愚かな冷戦下のイデオロギー対立を批判しながらも、そこに残された人間性に唯一の希望をつなごうというル・カレの意志が現れているように思われます。

 ベルリンの壁が崩壊してから既に20年が経ち、その存在自体が遠い過去となりつつあるわけですが、この作品を読むと、当時におけるベルリンの壁の圧倒的な存在の大きさが伝わってきます。人間が築いた人工構造物であるにもかかわらず、人間がそれを命がけで越えなければならない、というのは何というアイロニーでしょうか。この作品の最初と最後に、それぞれベルリンの壁を越えようとして命を落とす場面が配置されているのは、ベルリンの壁の存在という愚かさに対する痛烈な批判的視線が現れています。

 壁と言って思い出すのは、先般の村上春樹氏のエルサレム賞スピーチにおける壁と卵の比喩ですが、ル・カレのベルリンの壁に対する捉え方と通ずるものがあるように思います。先に引用したル・カレのインタビューにもあるように、ル・カレは思想よりも個人が大切だと考えていました。イデオロギー・思想対立の下で翻弄される個人の人間性を擁護しようという姿勢は、民族・宗教対立の下でも常に個人の側に立とうという村上春樹氏の姿勢とダブって見えてきます。

 決してスラスラと読めるタイプのスパイ小説ではありませんが、その分、奥が深く、何度でも読み返したくなる作品です。