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モーム「アシェンデン」

アシェンデン―英国情報部員のファイル (岩波文庫)

アシェンデン―英国情報部員のファイル (岩波文庫)

 作家とスパイの二足のわらじを履いていたあのサマセット・モームのスパイ経験に基づく小説です。草稿段階で読んだチャーチル首相が公務員の公職に関する守秘義務違反を構成しうると警告し、また、ナチスの宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルスモームの狡猾なスパイ活動の証左として非難したというくらいですから、大変リアリティに富んだ作品となっています。

 作品の構成は読み切り短編形式となっており、いくつかの断片的な物語が含まれた形になっています。「R」というコードネームの大佐からスパイの道に誘われたアシェンデンは、ジュネーブでスパイ活動を遂行します。当時ジュネーブには各国のスパイが集結し活動していました。「ミス・キング」は、アシェンデンが滞在するホテルで、エジプトの殿下の娘たちの家庭教師を務める老女が最期に故国イギリスの名を口にして絶命する話。
 「毛無しメキシコ人」「黒髪の女」「ギリシア人」は、ローマのドイツ大使館に重要情報を持って行こうとしているギリシア人を阻止しようというミッションを遂行するものの、毛無しメキシコ人が人違いで別人を殺してしまったという話。
 「パリ旅行」「ジューリア・ラッツァーリ」は、イギリス支配に激しい敵意を抱くインド人活動家を殺害するため、彼が惚れ込んでいるフラメンコのダンサーを使ってその男を騙して呼び寄せようとするが、その男は騙されたと分かると自殺してしまうという話。そのダンサーの女は、男が死んだという話を聞かされた際、自分が送った腕時計を返してもらえるかどうかを心配するという有様。
 「裏切り者」は、スイスのルツェルンで、ドイツ人の妻を持つイギリス人のスパイを監視するという話。この男はアシェンデンらの陰謀でイギリスに潜入させられることになり、残された妻は悲嘆に暮れる。
 「舞台裏で」「英国大使閣下」は、X市に派遣されたアシェンデンが英国大使の邸宅に招かれたところ、普段は洗練された大使が、自分の友人の話として、不釣り合いの女にのめり込んでしまった自らの過去の話を蕩々と聞かされるという話です。
 「コインの一投げ」は、オーストリアの軍需工場を爆破する計画を実行するかどうかの決断をコイン投げで決めたという話。
 「旅は道連れ、シベリア鉄道」「恋とロシア文学」「ハリントン氏の洗濯物」は、革命阻止のためにロシアのペトログラードに潜入したアシェンデンが、かつて恋仲にあった女を頼って活動する話。シベリア鉄道に同乗した話し好きのアメリカ人は会社の社用で同じくペトログラードに潜入したが、ロシア革命が激化する中、ホテルに出した洗濯物を持ち帰ることに固執したために、革命軍によって殺害されてしまう。

 ざっとこんな話なのですが、岡田久雄氏の解説にもあるとおり、これは一体スパイ小説なのかどうかは大いに悩まされるところであり、むしろモームの人間観察を描いた作品として捉えるのが妥当なような気がします。

 「ジューリア・ラッツァーリ」では、殺害のターゲットの男をおびき寄せるために利用されたフラメンコ・ダンサーの女が、男が自殺したことを聞かされた際、かつてクリスマスに贈った腕時計が自分の元に戻ってくるかを真っ先に質問し、アシェンデンを唖然とさせます。

 「英国大使閣下」は、一見非の打ち所がないほど洗練された大使が、自分の友人のことと称して自らの過去をあからさまに告白を初めて、アシェンデンは大いにとまどいます。その友人のことを見下げ果てた男だと思うかどうか訪ねられたアシェンデンは、次のような印象的な言葉を返します。

「もののわかった人間なら誰でも、虚栄心は、人の魂を苦しめる諸々の感情の中で一番破壊力が強く、一番普遍的で、最も根絶しがたいものであることを知っているはずです。・・・時は恋の苦しみを和らげてくれますが、傷ついた虚栄心の苦悩を鎮めることができるのは死しかありません。・・・」

 このようにこの作品は、こうしたモーム一流の人間性に対する見方をスパイという経験に基づいて描いたものなのです。岡田久雄氏が

「本書はスパイ活動よりも人間を描いている。」

という指摘は正に正鵠を得ています。

 それにしても本書は訳が素晴らしく読みやすく、あっという間に読み終えてしまいます。かつての翻訳と比べたわけではありませんが、翻訳も日々進歩しているということなのでしょうか。