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ジェイン・オースティン「説得」

説得 (中公文庫)

説得 (中公文庫)

 ジェイン・オースティンは、18世紀から19世紀の初頭にかけて生きた生涯独身の女性作家で、1817年に42歳という短い生涯を閉じる1年前にこの「説得」(Persuasion)を完成させています。若かりし頃に他人の説得によって断念した恋を、それから数年の時を経て成就させるという話なのですが、登場人物の揺れる心理状況の描写が素晴らしく、何とも美しい小説です。

 ロンドンに住む准男爵のサー・ウォールターは、金銭的に苦しくなり、やむを得ずその邸宅であるケリンチ・ホールを他人に貸し、紳士としての体裁を保つために、自らはロンドンから離れて温泉地のバースに移住する。ケリンチ・ホールの邸宅にはクロフト提督夫妻が越してきたのだが、クロフト夫人は、サー・ウォールターの聡明な娘アンがかつて結婚寸前の仲まで進んだウェントワース大佐の姉であった。アンは母親のように慕うラッセル令夫人の説得によって、ウェントワース大佐との結婚を断念したのだった。こうしてアンは再びウェントワース大佐としばしば顔を合わせることとなる。

 かつての2人の仲はもはや過去の話に過ぎないと思われ、2人には元の鞘に収まろうという素振りは見られなかった。ウェントワース大佐は、アンの妹の夫の親戚の娘であるルイーザと親密な仲と周囲から見られていたが、ルイーザはウェントワース大佐にも責任の一端がある不慮の事故で大けがを負ってしまう。ウェントワース大佐は心を痛めるが、やがてルイーザは別の軍人と結婚する。

 アンはやがて父親についてバースに滞在することになる。父親のサー・ウォールターと長女のエリザベスは、バースでは紳士としての体面が保たれ、比較的満足のいく生活を送っていた。そんなとき、アンの従兄弟に当たるミスター・エリオットがサー・ウォールターに近づくようになる。そして、さらにはアンにも好意を見せるようになる。ミスター・エリオットは、一見、極めて礼節正しい紳士のように見受けられたが、実は、狡猾にサー・ウォールターに近づき、准男爵の地位を引き継ごうとしていることが判明してくる。

 やがて、ウェントワース大佐もバースにやってくる。ウェントワース大佐は、アンがもはやミスター・エリオットに気があるものと思っていたが、あるパーティーの際に、アンが女性の方が男性に比べて愛情が長いという恋愛観を語るのを耳にし、手紙によって自らのアンに対する忘れられない思いを伝えることを決心する。その手紙は、自分はアン以外の女性を愛したことはない旨が切々と書かれていた。


 ところで、この小説の舞台がバースという温泉地であるという設定は大変興味深いものです。バースは18世紀にリチャード・ナッシュという人物がロンドンの社交界の掟を持ち込み、有閑階級が集うリゾート地に育て上げられました。街にはローマ時代に作られた温泉跡が残されているなど、太古の昔から温泉地として栄えていたのですが、そこに社交界ができあがったのは18世紀のことです。この一大リゾート地はまもなく衰退し、有閑階級の社交の場はブライトンなどの海浜リゾートに移っていくのですが、オースティンが生きた時代のバースはまだ社交の場として栄えていたのでしょう。実際、オースティンは一時期バースに滞在していた経験があるようです。
http://www.romanbaths.co.uk/
 この小説の中では、弁護士がサー・ウォールターに対してバースを移住先として進める場面で、次のような記述があります。

「サー・ウォールターのような窮地に追込まれた紳士にはバースの方が遙かに安全な場所であった―バースなら比較的少い出費でもどうやら紳士の体面が保てるからである。」

 この小説全体から受けるバースのイメージは比較的ネガティブなものが多く、オースティンはもしかするとあまりバースに良いイメージを持っていないのかもしれません。

 いずれにせよ、イギリスの有閑階級の生態を知る上でも、本当に良くできた小説です。