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金融危機に対する識者見解

 10月17日(金)の新聞に、国際日本文化研究センター所長の猪木武徳氏と東京大学岩井克人教授のコメントが掲載されていましたので、御紹介します。

 まずは、読売新聞の猪木武徳氏のコメント抜粋です。

「世界はこの20年ほどの間、「自由は善、規制は悪」という単純な論法でやってきた。その価値観が今、大きな修正を迫られている。
 1980年代までの自由主義世界は、自由経済といえども政府が最低限のルールを作るという意志を強く持っていた。(中略)
 ところが、80年代半ばから世界観ががらっと変わる。(中略)「小さな政府」「規制緩和」「市場原理」「民営化」といったアメリカ型の価値観が世界中にばらまかれた。いわゆる「ワシントン・コンセンサス」だ。(中略)
 企業の作り出した付加価値の分配がおかしくなって、賃金は上昇せず、ほとんど株主への配当に向かった。「企業は株主のもの」というアメリカ型の思想に経営者がかぶれて、従業員、地域社会とも深いかかわるを持つ社会的存在という視点を忘れたためだ。
 その結果、豊かさにおいて不平等だという嫉妬や恨みが社会を覆っている。(中略)不平等だという感覚が強く大きくなりすぎると、民主主義の存立基盤が揺らぎかねない。(中略)
 「ワシントン・コンセンサス」をまき散らしてきたアメリカ自身が、自由主義経済の再構築に乗り出さざるを得ない。
 自由競争が人間の福祉を実現するためには、行き過ぎやごまかし、不正がないような枠組みを作る必要がある。(中略)
 いつの時代も、人間の熱狂というのはすさまじいものがある。かつては十字軍、錬金術、今は投機だ。人間社会である限り、今後も大衆の熱狂という現象は避けられないので、熱狂を抑圧するシステムはうまく機能しない。
 求められているのは、熱狂が膨れあがって大爆発を起こす前に、ガス抜きができるような経済システムだ。世界中で官民の知恵が試される。」

 次に、朝日新聞岩井克人氏のコメントです。

「かくも大きな金融恐慌が自分が生きている間に起きたことには驚いた。だが、起こること自体には驚いていない。私は資本主義というものが本質的にこういう不安定さを持っていると常に考えてきたので、理論的には予測されたことだったからだ。
 経済学者のケインズは、市場経済は不安定であり、政策によるある程度のコントロールが不可欠であると考えた。世界大恐慌のあと、この考えが特に米国の政策の柱になり、成功した。ただ成功がゆきすぎて、景気対策のための国家機構が肥大化しすぎて、無駄が大きくなった。
 そこで60年代から英米を中心に、フリードマンを中心とする新古典派経済学が思想として優位に立ち始めた。市場経済は、国家の介入や規制をできるだけ少なくし、純粋化すればするほど効率化と安定化が達成されるとする考え方だ。それが、80年代に米国のレーガン政権や英国のサッチャー政権の経済政策の理論的裏付けになり、今や経済学の主流派の地位にある。
 それを、極限まで推し進めたのがブッシュ政権だ。規制をなくして、負債でもなんでも証券化し、世界のあらゆる部分を市場で覆い尽くそうとする。
 近年はいわば、新古典派の考える理想郷をつくる壮大な実験がグローバルな規模で行われていたと考えていい。実験の成否を問うテストは、90年代後半のアジア通貨危機あたりからあり、ほころびは見えていたが、今回の危機で実験は破綻した。(中略)
 この先、どうすればいいのか。資本主義社会は本質的に不安定なものである。ゆえに、新古典派経済学者の言うような、目標とすべき理想状態はなく、セカンドベストを目指すしかない。危機のたびに、国家資金の注入や、ある程度の規制など、理論的に裏付けられた対策でパッチワークしていくしかない。
 見通しは暗いように見えるが、歴史を顧みれば、経済はバブルの発生と崩壊をくり返しながらも、確実に効率性は増している。より良いセカンドベストを求めるプラグマティズムというか、永遠の実践主義でいかざるを得ない。」

 ちなみに、岩井克人氏の「会社はこれからどうなるのか」という本については、以前備忘録的に紹介したことがありますが、大変素晴らしい本です。
http://d.hatena.ne.jp/loisil-space/20071102/p1
 また、岩井氏は周知のとおり、貨幣について深く思索されてきた方で、貨幣それ自体が純粋な投機であるといった主張を展開されてきています。17日の朝日新聞の論考でも、

「資本主義全体が投機であり、本質的に不安定だと私が考えるのは、実は資本主義を支える貨幣それ自体が純粋な投機と考えるからだ。(中略)結局、貨幣の信用は「みんなが貨幣であると思っているから貨幣だ」という自己循環論法で支えられているにすぎない。(中略)貨幣が支える資本主義において、新古典派経済学者が説くような効率と安定の共存はありえない。」

と述べておられ、今回の金融危機の問題も、リスクの高い金融商品があたかも人々が最も信用する貨幣のように見えてしまったことに本質があるとの見解を述べておられます。


 さて、上にご紹介したどちらの論考でも、新古典派経済学が唱える市場主義一本槍の政策がここに来て破綻したという認識では一致しているような気がします。私も基本的にこういう見方に共感的です。


 新古典派経済学の議論というのは、前提条件を大幅に単純化することによって、市場メカニズムを分かりやすく理解するためのモデルとしては意味があると思うのですが、近年の極端な論者の中には、前提を大幅に単純化したという事実を忘れてしまったのか、この単純化されたモデルに現実の市場を近づけていこうというまったく本末転倒な議論をする者が増えてしまったわけです。規制緩和論者の議論は、たいていこの間違いを犯しています。

 ここで我々は、アダム・スミスが利己心に基づく市場の効率性を唱えながらも、同時に「同感(シンパシー)」という概念を唱えて、この「同感」という概念を、利己的個人を社会へ統合する原理として捉えていたこともう一度注目すべきでしょう。

 新古典派経済学の思想は、アダム・スミスの議論からこの「同感」的な要素を取っ払い、利己心によってのみ支えられる市場を想起してしまったところに大きな問題があるのではないかと思います。

 市場が今日の社会にとって欠かせない資源分配メカニズムであることは誰も否定できないと思いますが、だからといって、何の制約がない市場が理想的だと考える必要性も必然性もありません。適度な制約、ルールが加えらてこそ、市場は社会にとって健全なメカニズムとして機能するのです。

 これまで、新古典派経済学に対する懐疑を持った識者は数多くいるのに、それを表に出すことは皆どことなく躊躇していた間がありますが、今回の金融危機を契機として、猪木氏や岩井氏のような識者が、新古典派経済学に対する懐疑の念をこれまで以上に堂々と主張していくことができる環境変化が生じているわけで、今後の経済学の主流の論調が変化していくことを期待したいと思います。