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ポール・クレシュ「アメリカン・ラプソディ ガーシュインの生涯」

アメリカン・ラプソディ―ガーシュインの生涯

アメリカン・ラプソディ―ガーシュインの生涯

 ジョージ・ガーシュインという人物は、どうやらアメリカ人にとっては格別の地位と人気を誇っているようです。彼がその後のポップスやジャズ、クラシックなど音楽会に与えた影響の大きさは計り知れません。特にジャズの世界では、ガーシュインの曲の多くがいまだにスタンダード・ナンバーとして広く演奏されています。などなど、ジャズのスタンダードとなっているガーシュインの楽曲を挙げればきりがありません。


 本書は、1989年に邦訳が出版されたものですが、ガーシュインの生涯がコンパクトにまとめられています。

 ジョージ・ガーシュインは1898年9月26日にニューヨークのブルックリンで生まれます。父親はロシアのユダヤ人で、祖国を離れてニューヨークにやってきた人物です。ジョージの兄弟姉妹には兄で後に作詞を手がけることになるアイラ、そして弟のアーサー、妹のフランキーがいました。一家は金持ちではないにしろ、貧乏というわけでもなかったようです。

 ジョージは12歳のとき、一学年下の生徒が弾くバイオリンに感動して友達になり、音楽について教わります。そして、母親がアイラに習わせようと購入したピアノにジョージが飛びつき、以後、ジョージはピアノに夢中になります。

 ジョージは何人かの先生についてピアノを習いますが、飲み込みが早く、腕をぐんぐん上達させていきます。コンサート通いを楽しむ一方、ラグタイムやジャズ、劇場音楽にも熱中します。

 商業高校に通っていたジョージは、やがてリミック社という会社でソングプラガーとして働くことになります。ソングプラガーとは、ショービジネス関係者にシートミュージックを宣伝するため、新曲を弾くピアニストのことだそうです。父親はジョージが音楽で生きることに強く反対しますが、結局折れます。

 ジョージはソングプラガーとして、どんな音楽でも素敵に聞こえさせる技を身につけます。そして、自動ピアノで演奏させるためのピアノ・ロールの作成にも携わります。しかし、ジョージの夢は、世界中の人々が口ずさみ、歌い、踊る曲を書き、そしてブロードウェイのミュージカルの曲を書くこと、さらには交響曲や歌劇を作曲することでした。ジョージは自作の曲を書きためていきます。

 やがてジョージはリミック社を辞め、ある劇場で、他のミュージシャンたちが夕食に出かけている間にピアノを弾いている仕事に就きます。しかし、ここでジョージは、舞台上の歌手やコメディアンたちと息が合わず、屈辱的な経験をした挙げ句、劇場を後にして逃げ出したのです。

 その後、ジョージの曲はぽつぽつと注目されるようになりますが、彼にしてみれば、20歳にもなるのに出版された曲が少ないことにあせりを感じます。しかし、ついに<スワニー Swanee>という曲でミリオンセラーを記録することになります。

 あるとき、ホワイトマンというバンドリーダーが現代音楽の実験と題するコンサートを開くことになり、ジョージもこのコンサートのために協奏曲を書くことになります。しかし、コンサートまでの時間がほとんどない状況です。ところが、ジョージはボストンに向けて走る列車の中で、車輪の音に音楽を聴きます。こうして、ジョージの代表作<ラプソディ・イン・ブルー>が生まれるのです。
<ラプソディ・イン・ブルー>は23曲中22番目に演奏されますが、演奏が終わると盛大な拍手喝采がいつまで続いたそうです。ただ、当時の批評家の意見は賛否に分かれたようです。

 ジョージはその後数々のミュージカルを手がけ、数々の名曲を残します。一つ面白いエピソードとして、ジョージはフランスの有名な音楽家モーリス・ラヴェルにオーケストラの技法を教えてもらうように頼んだことがあったそうですが、そのときラヴェルは、次のように答えたそうです。

「どうして二流のラヴェルになりたいんだい。きみはすでに一流のガーシュインなのに。」

 現にラヴェルの曲の中にはガーシュインの影響を自ら認めたものもあるそうです。

 やがてジョージは、『ポーギー』という小説のオペラ化に着手します。この小説は、サウスカロライナ州チャールストンの黒人街に住むポーギーという足の不自由な乞食の話なのだそうですが、ジョージはこの小説は黒人について書かれた戯曲として最高のものだと考えます。オペラ<ポーギーとヘス>は上演時間が長くなってしまったことから、大幅に削除されて上演されます。結果的にこの作品はクラシックとポピュラーの融合に失敗しているなどといった批評がなされ、出資金も回収できないような状況だったのですが、ジョージが亡くなった後に削除された部分が復元され、ようやく評価されることになります。

 その後ジョージは、ハリウッドに拠点を移しますが、この頃からジョージは激しい頭痛に悩まされることになります。しかし、その原因は分からないまま時が過ぎます。そしてついに、1937年7月9日、ジョージは夕方昼寝しようと横になったまま目覚めることなく昏睡状態に陥ります。ようやく頭痛の原因は脳腫瘍だと考えられるようになります。至急の手術の必要がありましたが、アメリカ最高の外科医と連絡が取れません。この外科医はおそらく湾のどこかで自家用ヨットで休暇を楽しんでいるはずだったことから、二隻の駆逐艦が出動し、この外科医の捜索が行われます。ついにこの外科医は発見され、ジョージの手術が行われましたが、努力むなしく、1937年7月11日、天才音楽家は息を引き取ります。37歳という若さです。

 ジョージ・ガーシュインの死後から50年近く経った1985年2月、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で<ポーギーとヘス>が上演されます。まだ生きていたジョージの親族たちも参列します。<ポーギーとヘス>は本来であれば1930年代にこのメトロポリタン歌劇場で上演されるはずだったものの、ちょうど支配人が変わったため、ジャズ・オペラを上演することはできないと判断されてしまったのです。したがって、ガーシュイン音楽を愛する人々にとっては50年来の夢がかなったわけす。・・・


 ガーシュインの生きた時代は、1920年代の「ジャズ・エイジ」と呼ばれる時代です。フィッツジェラルドの小説やFL・アレンの『オンリー・イエスタデイ』の描写にも見られるように、この時代は禁酒法が施行されている中、アメリカ社会が快楽に溺れ、人々はどんちゃん騒ぎに浮かれた奇妙な活況を呈していました。そんな時代の中で、当時広がりを見せていたジャズやクラシックの要素、さらには自らのルーツであるユダヤの音楽の要素も取り入れて<アメリカ音楽>というものを提示したのがジョージ・ガーシュインだったというわけです。それは、ヨーロッパへの少なからぬ対抗心を持っていたアメリカ人にとっては、非常に心強く、精神的な支柱として十分な機能を持っていたと言えるでしょう。

 考えてみれば、今日の全世界を席捲しつつあるアメリカ文化の原型が確立されたのは、1920年代のアメリカ社会においてです。あらゆる物を消費の対象として飲み込んでしまう今日の消費文化の原型は、大恐慌が起こる前の1920年代のアメリカ社会で確立されたものです。スピード感溢れる軽快なガーシュインの音楽は、そんな時代のアメリカ社会の雰囲気を色濃く反映しています。

 つまり、ガーシュインこそがアメリカ文化を創った一人だったと言えます。歴史の浅いアメリカ社会にとっては、伝統文化のようなものは存在しません。そういう中でアメリカ文化を人々に提示したのがガーシュインだったのではないかと思います。

 ガーシュインは、かつて次のように発言していたようです。

「ぼくは伝統と無縁の人間だ。ぼくの場所はここ、ぼくの時代はいまだ。」(本書p118)

 著者も指摘しているように、このガーシュインの言葉にかかわらず彼の音楽が今なお生き続けて、今や伝統と化しているというのは何とも皮肉ではありますが、逆にいえば、ガーシュインこそがアメリカ音楽の伝統を作り上げた張本人だということの現れと見ることもできるでしょう。

 つまり、ガーシュイン音楽はアメリカ文化そのものであるからこそ、今なおアメリカ社会では絶大な人気を誇っているのであり、全世界で受けいれられているのだということなのでしょう。
 
 本書の記述でやや興味を引かれたのは、ジョージ・ガーシュインポーレット・ゴダードの関係です。ポーレット・ゴダードといえば、チャップリンの3番目の妻となった女優で、『モダン・タイムス』『独裁者』といったチャップリンの映画にも登場しています。ゴダードガーシュインが真剣に結婚を考えた唯一の女性だったようです。ガーシュインゴダードに対し、チャップリンと別れてくれとお願いしたものの、ゴダードは首を縦に振らず、二人が一緒になることはありませんでした。



 ところで、数日前、ガーシュイン自らが演奏しているアルバムを購入したのですが、もうそれ以来、毎晩、このアルバムに取り憑かれてしまっています。

The Piano Rolls

The Piano Rolls

 このアルバム、ガーシュイン自身のピアノ演奏ということで、実に素晴らしいアルバムです。しかし、なぜガーシュイン自身の演奏なのにこんなきれいな音として残っているのだろうか?と思ったところ、以下のTIMEの記事(だいぶ古い記事ですが・・・)に答えがありました。
Gershwin, By George - TIME

 要は、このアルバムの演奏は、レコーディングされたものではなく、Artis Wodehouseという方が、ガーシュインの残したピアノ・ロールを基に、ヤマハのピアノを使ってガーシュインの演奏を再現したものだということです。もちろん、ピアノ・ロールはガーシュインが作成したものですから、再現された音は当時のガーシュインの演奏に限りなく近いと考えてもよいのではないかと思います。

 とにかく、このアルバムの演奏を聴くと、ジャズ・エイジと呼ばれたアメリカ社会が華やかな時代に、ガーシュインがパーティーで葉巻をくわえながら得意げにピアノを演奏している情景がはっきりと脳裏に浮かんできます。

 出だしの、大ヒット曲の、そして何といってもガーシュインのピアノ演奏で聴けるのですから、もう言うことありません。特には、出だしのや暗いトーンから後半の明るいトーンへ極めてなめらかに自然に切り替わっていくところが心を揺さぶられます。


 短命ながらこれだけ後世に多大な影響を残したガーシュインはやはり偉大な音楽家です。