映画、書評、ジャズなど

黒川創「かもめの日」

かもめの日

かもめの日

 「新潮」の2008年2月号に初出の長編小説です。著者の黒川創氏はこれまでに数々の文学賞の候補に挙がっている方で、私は今回初めてその作品を手にしたのですが、登場人物たちの間のつながりが徐々に明らかになっていく作品の構成や、作品の底流を流れている現代社会の病理的な心性の描写が非常に巧妙で、大変素晴らしい現代日本文学に仕上がっているのではないかと思います。

 地上からは見えない雲を研究している肥えた青年のヒデ、14歳の時に3人の学生たちに暴行を受けた過去を持つ少女、某FMラジオ局でADとして働く森ちゃんと呼ばれる若者、同じラジオ局の看板番組のパーソナリティを務める幸田昌司、幸田の番組でニュースなどを読み上げるフリーランスのアナウンサーの西圭子、同じく幸田の番組で朗読小説を書く瀬戸山、瀬戸山の妻の三浦千恵、幸田の番組にゲストとして呼ばれた交通博物館のベテラン学芸員で引退間近の坂上伸二・・・、こんな様々な登場人物たちの互いの結びつきが、小説を読み進める中で徐々に明らかになっていきます。

 瀬戸山の妻の三浦千恵は、もともと幸田の番組でフリーのアナウンサーとして働いていたが、その職を西圭子に譲る形でアナウンサーから引退していたが、ある日突然、多摩川の土手で自転車から滑り落ちた形で変死する。その三浦千恵が死ぬ前に最後に電話をしていたのが幸田だった。幸田はもともと妻子があったが、ある女優と香港に駆け落ちして、妻子と離ればなれになっていた。かつて息子のツヨシを万世橋交通博物館に連れて行った記憶があったため、自分のラジオ番組に交通博物館学芸員の坂上伸二を招いたのだった。

 これらの登場人物たちを緩やかにつなぐ一つのキーワードが、本書のタイトルにも使われている「かもめ」だ。1963年6月に女性初の飛行士として宇宙に飛んだワレンチナ・テレシコワは、ヴォストーク6号に一人乗り込み地球を回った。その飛行に際して彼女に付けられたコードネームが「チャイカ」、すなわち「かもめ」でした。彼女は地球との交信で、

「わたしはかもめ。気分良好。万事好調!万事好調!」

と高揚した声で繰り返し叫びます。

 この「かもめ」というコードネームは、おそらくはチェーホフの『かもめ』にちなむものだった。半ば怯えながら「わたしはかもめ」と繰り返したテレシコワの心情も、チェーホフの『かもめ』のニーナの心情に近いものと言えそうだった。

 瀬戸山はかつて「マリヤの電報」という短編を書いたことがあった。マリヤとはチェーホフを愛していた妹で、瀬戸山の短編は、満百歳になったマリヤがクレムリンに対して抗議の長い電報を打つという内容のものだった。

 幸田はこの瀬戸山の短編を何度も読むほど気に入っていて、それがきっかけで瀬戸山は幸田の番組のエンディングで朗読小説を書くことになったのだった。

 さらに、交通博物館学芸員の坂上伸二は、高校生のときにテレシコワの宇宙飛行のニュースに接して宇宙に興味を持ったという経験の持ち主であった。坂上は幸田の番組にゲスト出演した際、テレシコワの話を延々と始める。テレシコワは地球に戻った後、先輩宇宙飛行士と結婚し、子供を産むことになったのであるが、坂上はこれは人体実験という面があったのではないかという見方を披露する。

 小説の最後の方では、暴行された過去を持つ少女と他の登場人物との関係も明らかにされていくのですが、この点はあまり触れずにおきたいと思います。

 いずれにしても、登場人物たちの間の緩やかな結びつきがじわじわと明らかになっていく本書の構成は何とも絶妙です。そして、その間をうっすらと取り持っているのがチェーホフの戯曲『かもめ』という点に、素晴らしいセンスを感じます。

 そして、本作品の登場人物たちの多くは、いわばフリーターともいうべき不安定な立場に置かれた人たちであり、この点が本作品を現代社会の置かれた状況を鋭く照らし出す大きな要素となっています。研究室で働くポスドクの青年、いつ仕事が打ち切られるか分からないフリーのアナウンサー、そして看板番組を持つ幸田ですら、聴取率が落ちれば明日はどうなるか分からない。そんな人たちの不安定な心理状況が、本作品が醸し出すテイストを基底しています。本作品で描かれる人々の間の絆がどこかしら病理的なものとなっているのは、そんな登場人物たちの置かれた不安定な心理状況を反映したものと言えそうです。

 「かもめ」というキーワードが、人々の間のそうした病理的な関係を象徴するものとなっているような気がします。テレシコワの「わたしはかもめ」という叫びもある種病理的なものですし、チェーホフの『かもめ』も決して健全なストーリーではありません。

 「かもめ」こそが、正に退廃的な現代社会を象徴するキーワードといえそうです。

 さらっと短時間で読める作品ですが、その余韻は深く長く継続する・・・そんな作品でした。