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東山魁夷展@東京国立近代美術館

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 GWの谷間、休みを取って東山魁夷展を鑑賞してきました。

 ドイツへの留学などを通じて西洋美術の世界も通過してきた東山魁夷は、おそらくもっとも日本文化を根源的かつ正確に理解していた日本画家なのではないかと思います。今回の展覧会は、相当の数の東山魁夷の絵が終結しており、極めて見応えのあるものとなっていました。

「緑響く」

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 私の最も好んでいる絵はやはり「緑響く」です。1982年の作品です。以前、長野県信濃美術館東山魁夷館でこの絵を鑑賞して以来ですが、眺めているだけで心の平穏が得られる神秘的な絵です。

 魁夷の風景画には一時期、白馬が頻繁に登場したことはよく知られています。この「緑響く」でも上下対称の構図の中に、小さく白馬が登場しています。魁夷は生前の文章の中で、白馬の解釈については鑑賞者の意思に任せるといった姿勢をとっており、一時期の魁夷が白馬に執拗にこだわった理由は本人の口から述べられたことはありませんが、私が思うに、白馬は魁夷自身なのではないかという気がします。
 魁夷は「風景開眼」というエッセイの中で、次のように述べています。

「私は生かされている。野の草と同じである。路傍の小石とも同じである。生かされているという宿命の中で、せいいっぱい生きたいと思っている。せいいっぱい生きるなどということは難かしいことだが、生かされているという認識によって、いくらか救われる。」(『泉に聴く』講談社文芸文庫p84)

 つまり、自然の情景の中に見事に溶け込んだ白馬は、魁夷自身が自然の中の一部分として生かされているのだということを象徴しているのではないかという気がするわけです。

 それにしても、白馬の描き方が見事としか言いようがありません。白馬が足音を立てずに静寂の中をゆっくりと進んでいき、そのまま森の中へすーっと消えていってしまう、そんな情景が目の前に浮かんでくるようです。

「道」

 魁夷の代表作の一つに「道」という絵があります。1950年の作品です。この絵によって魁夷は一躍画壇で認められるようになります。

 この絵の舞台は青森県の種差海岸というところです。魁夷はこの絵を描く十数年前、種差海岸の牧場でスケッチを描いたことがありました。そのスケッチを見ているときに、この種差海岸で見たひとすじの道が浮かんできたのです。魁夷はどうしてもそこに行ってみたくなり、電車を乗り継いで八戸に向かいます。果たして十数年前に見たあの道があのままの姿で在るのだろうか。魁夷は不安な気持ちで向かいます。いざ種差牧場に着いてみると、戦争の荒廃の後はこのみちのくの道にも現れており、魁夷の心の中に浮かんでいた道と現実の道には隔たりがありました。しかし、魁夷は「来てよかった」とつぶやいてその場に立ちつくします。

 魁夷は、自らの人生を道にたとえ、この作品に思いを込めています。それは、これから歩いてゆく道を描きつつも、いままでに辿って来た道でもあります。

「絶望と希望とが織り交った道、遍歴の果てでもあり、新しく始まる道でもあった。未来への憧憬の道、また、過去への郷愁を誘う道にもなった。」(前掲書p92)

 絵の上方で道は右に曲がっていき、どこへ続いていくのか分からない、しかし、だからこそ、道はきっとどこかに続いて行っているに違いないと見る側は確信されられるわけです。乾燥した土の道でありながら、何かしら希望を感じさせるのは、この道の構図によるところが大きいような気がします。

「白夜光」

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 魁夷はヨーロッパを描いた作品を数多く残しています。この「白夜光」という作品は、魁夷が北欧旅行に行った際のフィンランドの印象を描いたものです。
 魁夷は自分がなぜ北方に惹かれるのかについて、興味深い分析をしています。魁夷自身は北方の人間ではなくむしろ南方の人間です。それなのになぜそういう自分が北方に憧れたのか。魁夷は自分が北方に惹かれているのは、本当に北方的な極限の姿に惹かれているのではなく、北の要素の中にほの見える南の要素なのだと述べています。

 北方の世界はいわば「死の世界」です。死の意味とは、生命や愛との対極であるところにある、だから、死の認識によって生命や愛の姿はより鮮明なものになるのだと魁夷は考えます。北方を描いた魁夷の絵からむしろ温かい印象を受けるのは、魁夷のそうした思いによるものであると考えられます。魁夷は自分が北方に生の感動を読み取った理由について、次のように述べています。

「…北方の極が死の世界であり、その世界に近いところであるために、自然の姿にも人々の生活にも、生の輝きがあり、愛のあらわれが、鮮明に感じられたのではないだろうか。」(前掲書p111)


 冒頭にも少し触れたとおり、東山魁夷は自ら、

「私の場合は、むしろ戦前のほうが西洋に傾き、戦後は日本の美に対しての傾きが大きくなった。」(前掲書p202)

と述べているように、西洋を通過した上で日本に傾倒していきます。魁夷はこうした婉曲的な道を辿ってきたからこそ、日本の美しさを極めてよく理解することができ、それを絵の中で説得的に表現することができたのではないかと思います。

 魁夷は次のように述べています。

「戦争が終わった今では、年齢もある程度には熟し、自国の文化の質が世界のそれに比して、決して低い水準にあるものではないと知るようになったのである。」(前掲書p202)

 戦後の日本社会は西洋的なものを次々と取り入れていったわけですが、すでに戦前に西洋の眼を通して日本を眺めてきた魁夷は、西洋から取り入れられた新たなものに飛びつくことなく、日本を冷静に眺めることができたのです。

「私が新しいとされる西洋文化に、すぐ、反応を示さなかったのは、西洋の文化の素晴らしさ、その重みを知っていたからである。あわただしく変貌する新傾向も、西洋意識の伝統である積極性と実験主義のあらわれとして、考えられもするが、私にはついて行けない気がするし、また、ついて行こうとも思わなかった。」(前掲書p203)

 だから魁夷は、戦後の西洋化の流れの中で、確固たる信念をもって日本を選択することができたわけです。

「戦後のめまぐるしい西洋文化の流れの中で、私は、はっきりと日本を掴もうとした。」(前掲書p202)


 最後に、魁夷の「泉に聴く」というエッセイについて紹介したいと思います。魁夷はエッセイストとしても素晴らしい文才を持っています。どのエッセイを読んでも、幅広い教養の上に鋭い洞察を展開しています。

泉に聴く (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

泉に聴く (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

 この「泉に聴く」というエッセイで魁夷は、鳥の群れを見て、なぜ鳥たちは今日も、明日も、絶え間なく飛び続けねばならないのか、なぜこんなに早く飛ばなければならないのか、なぜ、もっとゆっくり飛べないのかを執拗に問います。

 魁夷は鳥たちに対し、次のように言葉をかけます。

「泉のほとりに、羽を休めて、心を静かにして、泉の語る言葉に耳を傾けるがよい。泉は、飛ぶべき方向を教えてくれているのではないだろうか。
 深い地の底から湧き出して、絶え間なく水を流し続けている泉は、遠い昔から、この地上に生き、栄え、滅びたものたちの姿を見て来た。だから、鳥たちの飛ぶべき方向を、たしかに知っている。」(前掲書p12)

 魁夷は、実は人間たちもこの鳥たちのように、荒廃と不毛の曠野の上を飛び続ける鳥なのだと言います。そして、誰しもの心の中にも泉があるのだが、日常の煩忙の中にその音が消し去られているのだと言います。

 曠野に道を失った時は、心の泉の音に耳を澄ますと、それが道しるべになる場合が少なくないと魁夷は述べます。

「泉はいつも、
「おまえは、人にも、おまえ自身にも誠実であったか」と、問いかけてくる。私は答えに窮し、心に痛みを感じ、だまって頭を下げる。」(前掲書p14)

「自己を無にして、はじめて、真実は見えると、私は泉から教わった。
 自己を無にすることは困難であり、不可能とさえ私には思われるが、美はそこにのみ在ると、泉は低いが、はっきりした声で私に語る。」(前掲書p14)

 なんと美しい文章でしょうか!!

 魁夷の数多くの風景画に登場するあの神秘的で静寂に包まれた泉は、魁夷が常にそのささやきに耳を澄ましてきた心の泉にほかならないのではないでしょうか。