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ベトナム戦争で特殊部隊員として活躍したウィラード大尉は、その後、故郷にも馴染めず、サイゴンのホテルの一室で鬱屈した日々を送っていた。そんなウィラードに出頭指令が下り、カンボジアのジャングル奥地で現地人を支配しているというカーツ大佐の殺害指令が命じられた。
ウィラードは4人の部下を引き連れて、小さなボートで川を上っていく。途中、空軍部隊と合流して護衛を依頼するものの、その指揮官キルゴアは戦闘が繰り広げられている戦場でウィラードの部下のサーファーにサーフィンを強要するといった狂気の振る舞いをする。また、途中立ち寄った駐留地では、プレイボーイのバニーガールたちに群がり興奮する兵士たちの姿があった。また、かつてベトナムを植民地としていたフランス人たちが切り開いた農場では、悲壮なまでに頑なに農場を守り続けようとするフランス人一族がいた。
こうして途中様々な出来事があった後、ウィラードはようやくカーツ大佐の築いた王国にたどり着く。そこは、無惨に殺戮された数々の遺体や生首が転がる凄惨な王国であった。ウィラードは真っ暗闇の中にたたずむカーツ大佐と面会するが、捕らえられて監禁される。やがて監禁は解かれたものの、脱出を試みれば殺されることを告げられる。
結局、ウィラードは隙を見てカーツ大佐をなたで殺害する。現地人たちはカーツ大佐を殺したウィラードに跪く。ウィラードはなたを地面に投げ捨て、現地人たちも武器を捨てる・・・。
この映画の制作に当たっては大変な額の費用がかかっていることは、映像から一目瞭然です。実際にかかったのは約90億円だったそうです。夥しい数の戦闘機や戦闘ヘリが投入されていますが、ベトナム戦争を否定的に描く映画に米軍が協力するわけもなく、一体どうやって撮影したのだろうという疑問が湧いてきたのですが、どうやらフィリピン軍の協力によって撮影されたもののようです。
さて、この映画のテクストをどう読むかについては、ノンフィクション作家の立花隆氏が書かれた「解読『地獄の黙示録』」が秀逸です。
- 作者: 立花隆
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立花氏によれば、コッポラはこの映画のテーマは
「モラルの問題であり、かつ偽善の問題である」(p73)
と語っているそうです。
ウィラード大尉がカーツ大佐暗殺の指令を将軍から受ける際に、将軍は次のように言います。
「his, ah ideas.....methods.....became unsounds.」
立花氏はこれを
「方法が不健全である」
と訳すべきと指摘した上で、この言葉こそが全編を貫くキーワードだとします。
「…このことばを通してナ・トランの将軍たちとカーツ大佐は、その持つ目的は同じだが、その方法論がちがうだけの同じ穴のムジナであることが示される。両者のちがいは、本質的ちがいではなく、現象的ちがいである。」(p73)
つまり、将軍たちから偽善の衣をはぎとってしまえば、結局カーツ大佐と同じことなのだというわけです。
現に、この作品の中では、米兵たちの様々な偽善行動が描かれています。はらわたが飛び出して苦しんでいる敵の兵士に対して、勇敢な男だからといって水を差し出すキルゴアの行為、機関銃を浴びて瀕死の状態にあるもののかすかに息のある女を病院に運ぼうとする行為、いずれも偽善行為です。
そして、ウィラードはそうした偽善を目の当たりにするにつれ、偽善をはぎとられたカーツ大佐に共感を抱くようになっていきます。
しかし、いざカーツ大佐に対面してみると、ウィラードはカーツ大佐に対する共感など吹っ飛んでしまいます。
「それはまたもう一つの偽善だったのである。ニヒリズムと自己神格化と原始的本能に依拠した偽善だったのである。」(p111)
それから、映画のラストシーンについても大変鋭い分析がなされています。実はこの映画のオリジナル版では、映画の本編が終わり真っ黒な画面にフランシス・コッポラのタイトルが浮かび上がってきた後、寺院爆破シーンが出て、その上にタイトルが重なっていく映像になっていました。しかし、完全版においては、この爆破シーンはなくなっています。
これは、この爆破シーンが誤解を招いたことの反省から削られたものだということです。コッポラ監督は、このシーンを削除したことについて自らの声で次のように述べているそうです。
「…将来においては、我々は戦争がない世界を築くことができるだろう。そういうヴィジョンを示すため、私はウィラードに武器を投げ捨てさせ、それを見た原住民たちもそれにならって自分の武器を投げ捨てるという場面を作った。…ここで、ウィラードが空爆を依頼して寺院を吹き飛ばすというようなことをしたら、それは、原住民を全員殺すということを意味する。そのようなイメージは、私の未来のヴィジョンと真っ向から対立するイメージである。」(p63)
ラストシーンにおいては、ウィラードはカーツをなたで殺す場面は、水牛を儀式の中で葬る場面と繰り返し重ね合わされています。このモンタージュのアイデアは、山岳民族の儀式を撮影した映像を見た監督が強烈な印象を受けたことによって、映画に取り込まれたものだそうです。それはさておき、このウィラードがカーツを殺戮するシーンは、コッポラ監督がフレイザーの『金枝篇』から着想を得たものです。
- 作者: ジェイムズ・ジョージフレイザー,James George Frazer,吉川信
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さらに立花氏は、こうしたエンディングシーンと密接に関連するのが、映画の冒頭に流れるドアーズの「ジ・エンド」であるという興味深い指摘をされています。
ドアーズというグループは、1967年にUCLAの学生が4人集まって作ったグループです。リーダーのジム・モリソンは詩と哲学に長じており、ドアーズの詩はたびたびニーチェからヒントを得て作られていたのだそうです。「ジ・エンド」という曲も、アメリカの若者にとっては「国歌」といわれるほどまでに愛されていたとのことですが、立花氏によれば、この歌は父親殺しと母親との姦淫願望を歌った歌なのだそうです。
他方、映画におけるカーツとウィラードの関係も、ある意味で父と子の関係でもあるといえます。そして、現地人たちはカーツの子どもたちとして描かれています。つまり、ウィラードによるカーツ殺しは、子による父殺しと重ね合わされて描かれているわけです。
「映画のエンディングがそのまま映画のオープニングになっているのである。」(p103)
という立花氏の分析は極めて説得的です。
このように、この作品はコッポラ監督によって様々なテクストが複雑に織り込まれているといえるわけです。1度見ただけでは、この複雑なテクストを読み解けるはずもなく、少なくとも二度は見る必要があるように思いますし、二度見る価値があるように思います。