- 作者: エドワード・W.サイード,デーヴィッドバーサミアン,Edward W. Said,David Barsamian,大橋洋一,大貫隆史,河野真太郎
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2008/03/10
- メディア: 文庫
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サイードが本書の中で提示している解決策は「一国家二国民」案です。
あまり知られていない事実かもしれませんが、イスラエルの人口の20%はパレスチナ人が占めています。つまり、すでにパレスチナ人とイスラエル人とは緊密に融合されすぎており、どちらか一方に軍配を上げるということができない状況にあり、そこからサイードは「一国家二国民」という解決策を提示しているのです。
「…パレスチナ人とイスラエル人が緊密に融合しあい、国土があまりに狭いため、いっぽうの住民が、軍事的にもういっぽうの側を圧迫するという状況をつくりだすことができないのです。立ち退きや住民の追い立てに、わたしは強く反対しています。…入植地は解体しなければいけませんが、同時に、住民たちはたがいに向き合わねばならず、それは隣人としてだけでなく、実際に、基本的に均質的な国家のなかで共存する相手として、向き合わねばならないということです。…なにしろ、おたがいの経済と歴史が、さまざまな点においてあまりにも緊密に結びついているため、二国民国家が最終的に長期的な唯一の解決策となると、わたしはあいかわらず信じています。…重要なのは、分割や分離がもう機能しないということです。」(p104−5)
少し長い引用ですが、サイードが考える「一国家二国民」の意図がよく現れています。
サイードによれば、パレスチナ人はイスラエル人入植地の建設と拡大のために雇われているという皮肉な状況にすらあると言います。そうした状況の中にあっては、分割や分離ということは解決策にはならず、一つの地域の中で共存することが必要だとサイードは主張しているわけです。
また、9・11テロが起きた直後のインタビューでは、サイードのこのテロに対する鋭い視点が現れています。サイードは、9・11テロについて、
「あの事件は過去一世紀にわたり、合衆国の海外関与の長期的矛盾の結果だと思う。石油産出地域としてのイスラム世界、アラブ世界、中東の諸情勢への関与のね。」(p149)
と述べています。
そして、サイードは、この事件が歴史的文脈で語られることが禁じられるような風潮を危惧します。
「わたしが恐れているのは、あの事件について同情や許しぬきにではあれ、歴史的に理解可能なものとして語られることが禁じられ、それが非愛国的であるとみなされるような局面にはいりつつあるということです。」(p153−4)
「…テロを許したり肯定したりするつもりはありませんが、人生から見放され、周囲の環境のすべてが、同胞市民たちが、ほかのパレスチナ人が、親や姉妹兄弟が、すべて死にかかったり傷ついたりしているときに、なにかしておきたい、一矢報いたいと考えた、絶望にうちひしがれた人間の所業として、それはすくなくとも理解できるのです。それは不当にも押しつけられたと考えられる状況から、自分自身を解放せんと必死にもがく人間の行動として理解できるのです。わたしが賛同する行為ではありませんが、すくなくとも理解はできる行為です。」(p159)
サイードは、9・11テロを実行した連中に対して、恐怖のために恐怖を作り出す目的しか眼中にないとして、痛烈に批判しているのですが、その一方で、9・11テロを歴史上の文脈で理解しようとする努力の必要性を強く述べているのです。
実際、9・11テロ直後には、サイードの懸念するような兆候が生じていました。例えば、テロ直後の報道番組に出演する顔ぶれを見ると、イスラムやアラブ世界についての知見を持った者は皆無だったという事実です。アメリカのマスメディアはこの事件をもっぱら安全保障と軍事戦略の問題として捉えていたからです。
では、アメリカ社会においては、どうしてここまでアラブとイスラエルに対する態度のギャップが生まれてしまったのか。この点について、サイードは、イスラエル・ロビーの重要性を強調しています。
「イスラエル・ロビーのもたらすゆがみは、アメリカ政治に組みこまれているのです。」(p202)
イスラエル・ロビーによって、アメリカとイスラエルは中東地域に対して共通の関心を抱くことになり、それがアメリカの政策決定に大きく貢献しているというわけです。
サイードは、イスラエル批判と反ユダヤ主義が同列視されることを強く憤慨しており、ハーバード大学総長だったサマーズについても、そうした雰囲気作りに貢献したとしてやり玉にあげています。
さらにサイードは、本書のタイトルにもなっているとおり、抵抗における文化の役割の重要性を強調しています。
「政治的アイデンティティがたえず脅かされている場合には、文化は消滅と忘却に抵抗して戦う手段となります。文化は抹消削除に抵抗する記憶形式です。」(p220)
「記憶は、アイデンティティを維持するための強力な集団的装置です。それは公式の物語や文献をとおしてのみならず、非公式の記憶をとおしても継承されうるのです。それは歴史による抹消の浸蝕を食い止める防波堤のひとつです。それは抵抗の手段です。」(p254)
こうした観点からサイードは、文化はこの上なく重要なものだとします。
サイードはアルジェリアの例を挙げていますが、フランスはアルジェリアでアラブ的なものを教えることを禁じようとしたものの、学校以外の場、すなわちモスクで民衆はアラビア語を学び、口承文化を残そうとしたとのことです。サイードは、こうした事例を挙げつつ、民衆の創意工夫が抵抗の手段となるのだと考えているのです。
また、映画について、政治的目的達成のための道具として利用できるか、との質問に対し、
「完全に可能です。」(p261)
と答えています。かつてエリア・スレイマンという監督の《D・I》という作品がアカデミー賞外国賞にノミネートされるはずだったのが、パレスチナと呼ばれる外国の国はないとの理由でノミネートされなかったとのことで、サイードは怒りを投げかけています。
さらに音楽については、以前このブログでも取り上げましたが、サイードは指揮者のバレンボイムと緊密な関係を持っており、本書でもバレンボイムについて触れています。
サイードはパレスチナ西岸地区のビル・ゼイト大学でバレンボイムが演奏会を開けるよう手配したそうですが、イスラエル人であるバレンボイムが演奏しにやってくることには相当の抵抗があったとのことです。しかしながら、結果的には成功を収めたとのことで、サイードはこの演奏会について
「わたしの人生における偉大なイヴェントのひとつ」(p49)
と称しています。
本書には、このほかにも、極めて示唆に富んだ言及に溢れていますが、それをすべてここで紹介することはできません。本書はインタビューという形式をとっていることもあって、サイードのパレスチナに対する考え方が極めて平易に述べられており、しかも、その解決策についても、「一国家二国民」という形で明快に打ち出されていることから、大変読後感はすっきりします。
かつてエルネスト・ルナンが国民成立のために文化の「忘却」が必要だと言ったり、ベネディクト・アンダーソンが国家を「想像の共同体」と捉えるなどしてきましたが、サイードはそうした概念を踏み越えるかのような「一国家二国民」という解決策を提示しているわけです。これがパレスチナにおいて直ちにうまくいくとは到底思えませんが、パレスチナ問題という難問を乗り越えるための様々な思考作業が行われることは極めて重要です。この問題を単純な政治・軍事問題として矮小化してはけっしてならないように思います。
多様な文化の共存という問題はこれまで多くの知識人たちにとっての大きな課題でした。比較的文化の均質性が高い日本人にとってはあまり身近な問題ではありませんが、グローバル化が進展する中で、決して他人事の問題ではなくなってきていることも事実ではあります。サイードの問題意識は、私たちにも少なからぬ示唆を与えてくれるように思います。