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奥武則「論壇の戦後史」

論壇の戦後史―1945‐1970 (平凡社新書)

論壇の戦後史―1945‐1970 (平凡社新書)

 戦後の論壇が華やかなりし時の状況を、生き生きと描いた本です。かつての知識人たちが、自らの社会の位相を巡って真剣に議論を闘わせてきた様子が手に取るように分かります。

 本書でまず取り上げられているのは「20世紀研究所」です。清水幾太郎、大河内一男、丸山真男ら蒼々たるメンバーが名を連ねた研究所です。丸山真男が「悔恨共同体」と呼んだ戦後知識人たちの精神状況を体現したような団体で、活発な講義活動などを通じて民衆に対する啓蒙活動を行い、敗戦の中で人びとが国家や社会のあり方を本気で考えるきっかけとなったと奥氏は位置付けられています。

 こうした「悔恨」の思いは、やはて岩波書店の『世界』の創刊にもつながっていきます。岩波茂雄は「新日本の文化建設」という壮大な言葉で創刊の意を表します。この創刊号は8万部をたちまち売り切ったということですから、当時としては驚愕的な関心を集めたことになります。

 この『世界』に掲載された論文で波紋を呼んだのは、津田左右吉の「建国の事情と万世一系の思想」と題する論文でした。これは、津田が「万世一系の皇室という観念が生じまた発達した事情」を明らかにした上で、国民主権の時代における「国民の皇室」を説いたものでありましたが、この論文を受け取った編集長の吉野源三郎は、この論文が政治的に利用されることを危惧し、津田に加筆の説得を試みたものの、津田は説得に応じず、やむを得ず吉野は、この論文が「反動」でないことを「釈明」する文章を掲載することにしたというわけです。

 それから『世界』から飛び出した寵児といえば、やはり丸山真男です。1946年5月号に掲載された「超国家主義の論理と心理」は大変な反響をもたらします。この論文は「日本の国家体制を支えてきたイデオロギー超国家主義ととらえ、それが「心理的な強制力」を働かせることになったのはなぜか、と問うた」(本書p77)もので、天皇を頂点とする国家主権が精神的権威と政治的権力を一元的に占有したとするものです。丸山はこの論文を執筆した当時を振り返って、次のように回想しているとのことです。

「…この論文は、私自身の裕仁天皇および近代天皇制への、中学生以来の「思い入れ」にピリオドを打った、という意味で―その客観的価値にかかわりなく―私の「自分史」にとっても大きな画期となった。敗戦後、半年も思い悩んだ揚句、私は天皇制が日本人の自由な人格形成―自分の良心に従って判断し行動し、その結果にたいして自ら責任を負う人間、つまり「甘え」に依存するのと反対の行動様式をもった人間類型の形成―にとって致命的な障害をなしている、という帰結にようやく到達したのである。」(本書p79−80)

 こうして時代を象徴するような数々の論文を生み出した『世界』は、60年安保の時期まで「論壇誌ののチャンピオン」(p84)として君臨します。1946年11月号には、ヨーロッパの偉大な近代芸術を「第一芸術」であるのに対し、俳句など近代西欧の高みから遅れた日本の芸術を「第二芸術」と呼んだ「第二芸術―現代俳句について」も掲載されます。

 そして『世界』は、「平和問題懇話会」という知識人たちの集団の活動の場ともなります。当時、第三次世界大戦が起きれば人類は滅亡してしまうという空気が知識人たちの間にありましたが、そんな状況への応答として生まれたのがこの「平和問題懇話会」というわけです。この会は、当時大きな論戦のテーマとなっていた講和問題について、全面講和を主張しますが、これを機に『世界』は主張する雑誌へと変貌していくことになります。

 その後、講和条約が締結されると「平和問題懇話会」は活動を事実上停止させますが、その後、基地問題にのめり込んだ清水幾太郎が執筆した「内灘」が1953年9月号の『世界』に掲載されます。清水は「民衆の生活に根を下ろした基地反対闘争こそ、講和条約日米安保条約、さらには日米行政協定の廃棄につながるのではないか、と考えた」(本書p127)わけです。清水はこの論文の中で、

「私は、基地の問題の中に、自分の義務を見た。」(本書p128)

と述べているとのことです。

 しかし、『世界』は次第に時代の流れから取り残されていきます。その1つの兆候がハンガリー事件への対応で、『世界』に掲載された対談において、出席者はソ連の軍事介入を擁護するような発言をしていることが、本書で触れられています。

 政治の季節のクライマックスの60年安保の際には、『世界』の1960年5月号に清水幾太郎の「いまこそ国会へ―請願のすすめ」が載り、この論文に促されるかのように国会に請願の波が押し寄せます。しかし、安保改定は6月15日に自然承認を迎えます。この時に同じく国会周辺の人波の中にいた清水と丸山が対照的な反応を示したことは有名です。

 一緒にいた家族とともにワーワーと泣き出してしまった清水に対し、丸山はチラッと腕時計を見て、ああ過ぎたなと思っただけで、特別何の感情も湧かなかった・・・。

 丸山にとっての問題は民主主義であり、60年安保に際して主張する民衆が登場したこと自体を評価していたのに対し、清水にとっては、民主主義などどうでもよく、ただ喧嘩に負けたという口惜しさのみであった、という違いが、両者の異なった反応に現れてきたというわけです。

 奥氏は、こうした60年安保を巡る状況について、保阪正康の「通過儀礼」という言葉で締めくくっています。

 その後、日本社会は高度成長期に突入しますが、今後は『中央公論』の活躍が目立つようになります。戦後の日本文化を「高級文化中心」「大衆文化中心」「中間文化中心」の三段階に分けて、現在が「中間文化の時代」だと位置付ける加藤秀俊氏の「中間文化論」が『中央公論』1957年3月号に掲載されます。

 また、『文藝春秋』の1956年2月号には中野好夫の「もはや「戦後」ではない」が掲載されます。経済白書がこの言葉を使った半年ほど前のことです。

 松下圭一の「大衆社会の成立とその問題性」は『思想』の1956年11月号に掲載されます。この論文は、社会形態の変化に伴い、<階級>が<大衆>化したと論じたもので、階級を否定するものであることから、マルクス主義陣営は強く反発したとのことです。

 また、1961年2月1日に中央公論の社長宅で家事手伝いの女性が刺殺された事件についても取り上げられています。これは、その前年12月号の『中央公論』に掲載された深沢七郎の「風流夢譚」の中で、皇太子殿下の首が転げ落ちる描写がなされたことに対して右翼の少年が中央公論社長宅を襲ったというものです。そしてこの事件後、中央公論社社長名で「お詫び」の文章が掲載されます。さらに、中央公論社は、1961年12月の「天皇制特集号」も「業務上の都合」を理由に発売中止にし、雑誌そのものを廃棄処分にしてしまったということです。「天皇制」は危ないという恐怖感が出版人としての倫理を踏み外させてしまったというわけで、奥氏は

「『中央公論』は、具体的な執筆拒否という以上に、この出来事によって大きなダメージを受けた。タブーなき言論は、論壇誌の拠って立つ重要な基盤である。『中央公論』は、自らの行為によってタブーを作り出してしまった。」(本書p183)

と述べています。

 その後、論壇では「現実主義」路線が台頭します。高坂正堯は『中央公論』1963年1月号で「現実主義者の平和論」を掲載します。高坂は理想主義者を次のように批判します。

「問題は、いかにわれわれが軍備なく絶対平和を欲しようとも、そこにすぐ到達することはできないということである。…手段と目的との間の生き生きとした会話の欠如こそ、理想主義者の最大の欠陥ではないだろうか。」(本書p191−192)

 少し遅れて永井陽之助も『中央公論』の1965年5月号で「日本外交における拘束と選択」を掲載し、勢力均衡論の立場から、日本の現実的な選択として、当面、日米安保条約の堅持を主張しました。

 それから、『朝日ジャーナル』の時代がやって来ます。各地の大学に生まれた全共闘の闘いに寄り添うような誌面展開をしたのが『朝日ジャーナル』でした。しかし、70年安保が平穏に過ぎていくと、全共闘も消えていき、『朝日ジャーナル』の時代を終焉していきます。



 以上、本書の内容を私なりに振り返ったものですが、奥氏は、こうして論壇を振り返った動機について、最後に次のように締めくくっています。

「いま、どういった議論を、どういったかたちですれば、実りが得られるのか。「戦後」論壇の経験を振り返ることは、私たちが歩いてきた道を見直すということ以外に、今後のあるべき論壇のかたちを考えるためにも無駄ではないはずだ。」(本書p231−232)

 奥氏は、近年の論壇の低調を憂う気持ちから、かつての論壇を振り返り、今日の議論に生かすべきだと考えられたのでしょう。私もそうした問題意識については同感です。

 かつての論壇は、国家の針路や人びとの生き方といったようなものにまつわる壮大なテーマを巡って繰り広げられたものでした。しかし、今日の論壇においては、かつてのような壮大なテーマを巡る論争というのはあまり見当たらないというのが現状のように思います。

 インターネット上で稀に激しい論争が起こることもありますが、人格と人格がぶつかり合うような迫力のある論争や歴史に残るような深淵な論争というものは、そう多くあるわけではありません。

 しかし、論争のテーマがパッと見で見当たらないということと、議論すべきテーマがもはやない、ということとは意味合いが違います。議論すべきテーマはあるはずなのですが、それがなかなか大きなテーマとして浮上してこないというのが現状のような気がします。

 本書を読んで、戦後の人びとがいかに様々なテーマについて真剣に向かい合ってきたかが肌で感じられました。例えば、1946年に丸山真男の「超国家主義の論理と心理」が大きな反響を呼んだわけですが、この論文に対する賛否についてはとりあえず置いておくとして、1つの論文がこれほど大きな力を持ち得たということ自体、今日からすれば驚くべきことですし、それだけ人びとが活字を通じて幅広い知識を吸収し、物事を真剣かつ深刻に考えようとしていた現れといえるでしょう。当時の人びとの熱い思いというものが感じられます。

 かつての論壇を賑わせた著名な論文が一通り登場するだけでも、読んでいてなぜだか心躍る感じにさせられてしまう良書でした。