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映画、書評、ジャズなど

武田晴人「仕事と日本人」

労働

仕事と日本人 (ちくま新書)

仕事と日本人 (ちくま新書)

 今日私たちが当然のものとして受け止めている「労働」の捉え方が、近代の産物であるということを、労働にまつわる歴史を繙きながら分析した労作です。筆者は、以前の著書『日本人の経済観念』でもそうなのですが、歴史的アプローチから今日流布している観念を捉え直す手法が大変お得意のようです。主流の経済学においては、いつの時代にも普遍的な理論を追求する傾向が強く、時代時代の状況との関係性が軽視されることが往々にしてあるのですが、そういう中で歴史的アプローチにこだわる武田教授の姿勢は大変貴重なものであり、我々が当然のこととして受け止めている観念が実は不安定なものであるという事実を暴き出すのには打って付けのように思います。

 筆者はまず、「労働」という言葉の起源にこだわります。古い用例や中国の用例では「労働」ではなく「労動」と表記されている事実を指摘します。つまり、「労働」という表記は近代化の進んだ時代の産物だというわけです。漢語では「労動」は「身体を労して動かす。はたらく。騒がす。動揺させる。」という意味があるのに対し、「労働」は「骨折ってはたらく」という意味で、両者は区別されているとのこと。この意味の違いが意識されないまま、「骨折って働く」という意味の「労働」というlabourの訳語として生まれてきた言葉が。昔から一貫して「はたらくこと」の普遍的な意味として考えられるようになり、現代の私たちの観念を形成しているのだと、武田教授は指摘されています。そして、過去の文献の調査から、経済学の専門的な用語としての「労働」という言葉が誕生し、日本人が日常的な言葉として使うようになってから、まだ100年くらいしか経っていないと指摘されています。

 また、今日の人々の仕事ぶりについても、それが昔とは大きく変わってきたことを筆者は指摘します。イギリスの歴史家トムソンは、伝統的な農業生産を中心とした社会の人たちがもっていた時間と仕事との関係を「課題本位」と呼び、次のような特徴を指摘していたそうです。

「第一に、農民あるいは労働者は、自然のリズムによって課された一つの必然のように見える慣習的な一連の活動を遂行する。
 第二に、社交と労働が混ざり合い、「生活」と「仕事」の区別があいまいである。労働と「おしゃべりをして時を過ごすこと」の区別がほとんどない。生活は、集中的に努力する時間と無為の繰り返しである。
 第三に、時間を気にしながら生活するのに慣れている人にとっては、労働に対するこのような態度は浪費的で時間的緊張を欠いているように見える。」(p60−61)

 ここでとりわけ注目されるのが、「社交と労働が混ざり合」っているという点です。つまり、近代以前の人々は、仕事の最中でも決して時間に追われるようなスタイルは取っておらず、今日から見れば怠慢とも受け止められるスタイルが一般的だったわけです。

 そうした仕事のやり方は、近代に入って工場が成立すると、大きく変わっていきます。そして、「労働」という言葉の定着と相まって、マイナスイメージが強く刻印されていきます。指揮命令系統が明確化され、それまで誇りを持っていた職人たちは、工場労働者へと転落していきます。

 そして、時間に対する捉え方も、仕事ぶりに大きな影響を与えます。時間は計られるものとなり、常にスピードが要求されるようになる。「鏡の国のアリス」に出てくるチェスの女王が言った、同じ場所にとどまるためにも走り続けなければならない。労働時間もきっちり決められるようになり、しかも、工場の固定費用償却を進めるために、経営者はできるだけ長時間機械を稼働させる必要があったことから、長時間労働が一般化していきます。作業時間の標準化を図るテーラーシステムも次第に工場労働に導入されていき、徹底した無駄の排除が行われていきます。工場での作業には、当然、強い緊張が伴い、息つく間もないものに変わっていきます。さらには、定年制が設けられ、労働者の生涯の時間配分も年単位で規律されることになります。

 筆者がとりわけ力を入れて述べているのが「賃金」の考え方についてです。筆者は、報酬をお金で払うことが一般化するのは近代社会に入ってからだと指摘されています。それが、いつの間にか賃金が自己目的化し、仕事の中身に対する評価が抜け落ちて、賃金が労働の目的となってきたのだと筆者は述べています。

「何をしたかではなく、どれだけ稼いだかで人の価値を計るような社会」(p243)

現代社会はなっているというわけです。

 では、筆者はこうした問題意識をどのように乗り越えようとしているのでしょうか。本書の最終章では、筆者の自問自答が繰り広げられています。

 端的に言えば、筆者の提案する方向とは、賃金労働以外をきちんと評価する社会にしましょう、ということです。つまり、現実問題としては、今の組織労働において主体性を発揮できるようにするようにしていくことは困難であり、だから、もっと広い意味で、働くということを捉え、それに正当な評価を与えていくべきだということです。

「報酬のない働き方も認めるような方向に、私たちは社会のあり方を変えていく必要があります。」(p282)

 そして、筆者は、具体的に、企業の有給休暇の制度を拡張して、災害救援や地域の高齢者介護を行うだとか、個人の所得税制において、NPOにおいて働いた時間に対する「支払われない賃金」部分を労働の出資や寄付として認めていくことなどを提言されています。


 以上、本書の内容を私なりに敷衍して追ってみましたが、私は筆者の問題意識に対しては、極めて強い共感を覚えます。今日主流の新自由主義的な経済学と真っ向から対峙するような主張を展開する筆者の勇気は、高く評価したいと思います。

 筆者の取り上げている問題を一刀両断に解決することは、本当に難しいと思います。最終章での筆者の自問自答も、決して明快な解決策を提示しているわけではありませんが、それも致し方なく、むしろ、こうした解決困難な問題を取り上げた勇気に感嘆させられます。

 今日の組織労働において、前近代のスタイルの労働を取り戻し、主体性を回復させようというのが、現実的には難しいということは、筆者も認めるところであり、私も同感です。だから筆者は、そうした賃金労働以外の分野での労働というものを正当に評価する社会のあり方を提言されているわけです。確かに、90年代にNPOが持ち上げられたり、ボランティア活動が盛んに励行された時期がありましたが、実際にはそれが労働中心社会への対抗軸として定着したという実感は持てないことも事実です。

 そして、筆者は、労働と余暇の二分法に対して懐疑的な姿勢を示しています。私も、前近代のように、労働と余暇を二分的に考えなくても済むような社会が実現できれば、それは最も理想的だと思います。しかし、現実問題として、労働と余暇の区別を意識しないスタイルで働くことができる人は、ごく一部の恵まれた人たちだけでしょう。圧倒的多数の人たちは、主体性を思ったようには発揮できない状況で働くことを余儀なくされているわけです。

 そう考えると、労働と余暇の二分法があながち否定されるべきではないと私は思うわけです。もちろん、労働における主体性の回復というテーマは依然として重要であり、追求されなければならないテーマだとは思うわけですが、その実現性が十分に期待し得ない以上、労働の比重を軽減して、余暇を比重を増加させていくという努力が必要なのではないかと思うわけです。

 実際、武田教授も労働と余暇の二分法に反対だと述べてはいるものの、既存の労働以外の分野における正当な評価を提案しているわけですから、実は、発想としては、二分法に近い発想で考えているように見受けられます。

 こうした観点で見ると、本書には注目すべき指摘があります。それは、江戸時代には休日の日数が増えていたという事実の指摘です。江戸時代には、一般に、村の慣行で休日が決まっており、19世紀初頭までの事例では、年間20日前後から30日以下程度であったとのことです。ところが、早いところでは18世紀後半から、ほとんどのところで19世紀中に休日の日数は増加に転じ、その結果、多くて5、60日程度に休日の数は増加したとのことです。

「休日が確実に増加し続けていたことは、農業における生産性の上昇が労働の際限のない投入による所得増加の追求ではなく、「余暇」の増加という成果にも結びついていたということになります。勤勉な農民たちは、仕事のやりくりに熟達し、労働のための時間が節約できたとき、余った時間をさらに働き続け、際限もなく働くことだけを求めていたというわけではなかったのです。」(p79)

 生産性の向上による恩恵を「余暇」に回していた江戸時代に対し、高度成長期の日本社会では、生産性の向上による恩恵を「所得の上昇」に回し、消費支出を増加させる方向性を選択しました。それは、戦後の労働組合が、労働時間の短縮ではなく、賃金の引き上げを志向したということも大きな要因となっているわけですが、結果的に、生産性の飛躍的上昇にもかかわらず、労働時間が大きく減少することにはつながらなかったわけです。

 1950年代後半には「消費革命」という言葉が日本社会において使われるようになりますが、旺盛な人々の消費意欲が人々の所得上昇への志向を高め、それが人々の労働への意欲にもつながっていたという面は確かにあったと思います。だから、本書でも触れられているように、人々はより多くの消費をするために、積極的に残業をしていたという面もかつてはあったと思われます。所得の上昇が「総中流意識」を生み出し、それが社会の安定要素となっていたことは否定できないように思います。

 しかし、私は、近代が成熟した今日、消費への意欲を社会の安定要素として期待するのはもはや難しい状況なのではないかと思っています。むしろ、近代労働の負の面はますます強調されるようになっています。だからこそ、「余暇」に再度注目し、生産性の向上に伴う恩恵を人々の「余暇」に振り向けるような社会のあり方を模索していくべきなのではないかと思うわけです。そのためには、労働時間規制の強化が不可欠でしょう。

 労働問題というのは、本来、今日の社会における中心的な問題であるべきです。そういう意味で、この問題を真っ正面から取り上げた本書は大変貴重であり、問題意識を強く共感できる本でした。