読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる
映画、書評、ジャズなど

NHKスペシャル取材班「インドの衝撃」

経済

インドの衝撃

インドの衝撃

 1年ほど前にNHKで3夜に渡って放送された番組の取材班がまとめた本です。最近のインドの変貌振りを知るためには手っ取り早い本です。

 第?部は、主にインドの頭脳の源泉であるインド工科大学(Indian Institutes of Technology:IIT)についての話です。定員5千人に対して受験者は30万人、つまり競争率は60倍という驚異的な難関さです。全土の11億人の人口から本当にトップのみが集まってくるわけですから、そのレベルの高さは言わずもがなです。

 学生たちは特別な事情がない限り全員が大学内の寮で暮らし、互いに独創的な解き方を競います。IITが設立されたのは1951年ですが、当時のインドには資金も技術もなかったことから、高価な実験装置がなくても学べる数学、科学等の純粋理論を学ぶことに特化したとのことです。

 これだけの精鋭たちが集まっているわけですから、IITの卒業生は世界中から引っ張りだこです。欧米の企業の役員たちがキャンパスまで出向いて面接を行い、その場で採用を決定するわけです。初任給は1千万円で、ハーバード大学の卒業生と同じ待遇です。

 IITの卒業生たちは、以前は80%が海外に渡っていたものの、現在ではわずか10%だけで、最初からインドの企業に就職するようになっているとのこと。

 そんなIITの学生たちの尊敬する人物が、インフォシスを創業したナラヤム・ムルティという人物です。インフォシスはIT企業が集積するバンガロールにありますが、年間の売り上げ高が3740億円にも上る企業です。

 ムルティは苦学してIITを修了し、パリのシャルル・ド・ゴール空港で航空貨物を自動的に振り分ける画期的なリアルタイム・オペレーション・システムを開発します。その後インドに帰国して起業しますが、10年間は全く利益が出ません。ところが、1990年代初頭にアメリカで「情報スーパーハイウェイ構想」が動き出すと、アメリカでITブームが起き、インフォシスはボストンに海外オフィスを構え、ソフトウェアの仕事を請け負っていくようになり、その後、規模が急速に拡大していったとのことです。かつて2000年問題が騒がれた際にも、インドのIT技術者たちが大いに活躍の場を広げたことはよく知られています。

 インフォシスの収益の98%以上は海外企業との取引によるものだそうで、例えば、マイクロソフトウィンドウズ・ビスタでも、インフォシスはその開発を支えてきており、また、世界最大のジャンボジェット機エアバスA380の設計でも、デザインや開発をインフォシスが担っていたのだそうで、そのキャパシティの広さには衝撃を受けます。

 正に、トーマス・フリードマンのいう「世界のフラット化」をそのまま実践しているのが、インドのIT企業なのです。


 第?部は、インドの消費の実態についてです。インドでは「中間層」の人々が急速に増加しており、それがインドの消費の拡大を支えています。本書では、デリー郊外のグルガオンという都市についてレポートされていますが、とにかく中間層の人々の年収の伸びは尋常ではありません。本書で登場するある一家は、10年間で年収が230万円から1450万円に拡大したそうですが、こんな人たちがいっぱい存在するわけです。

 こうした消費の増加の中で、小売業の注目が高まります。巨大スーパーの「ビッグバザール」が各地に進出して、大きなショッピング・モールを建てています。「ビッグバザール」のスタッフの中には、かつてBRICsという言葉で注目されたレポートをゴールドマン・サックスで共同執筆した若い女性もいたりするなど、優秀な人材がこの業界に取り込まれていっているようです。

 こうした消費ブームの中、逆に、マハトマ・ガンジーの清貧の思想が見直されてきているというのも皮肉な現象という気がします。

 最後に第?部は、インドの政治力についてのレポートです。とりわけ注目されるのは、インドの対アメリカ外交です。インドは1998年に核実験を実施し、米印関係は冷え込みます。ところが、10年経ってみると、米印は核協力に合意しているなど、その緊密な関係ばかりが際だっています。しかも、インドは国際原子力機関IAEA)からの査察を受けるものの、軍事用核施設はその対象に含まれていませんし、核実験を禁止するCTBT条約にも署名していません。結果を見れば、インド外交の圧倒的勝利と言わざるを得ないでしょう。

 インドのこうした政治力の源泉は何か?その裏には、強固な在米インド人のネットワークが存在するのです。彼らが強力なロビー活動を展開することによって、米国議会には「インドコーカス」と呼ばれるインドシンパの議員が増えており、その数は、上下両院の議員535人のうち200人を超えているのだそうです。

 本書では、在米インド人の中心的存在であるチャタルジーという人物が、共和党のタカ派の重鎮であるジェシー・ヘルムズを巧みに取り込んでいく様が描かれています。

 こうした在米インド人たちの活動の成果もあって、最悪だった米印関係は改善されていき、インドの核実験から2年後にはクリントン大統領が訪印し、核実験から8年後には、インドは核兵器を保有したままでアメリカから原子力の民間分野での協力まで取り付けることになったわけです。

 しかし、インドの政治情勢には、大きな落とし穴があります。それは、民主主義国家であるインドにとっては、圧倒的な数を占める農村の人々の支持がなければ、政権を維持できないということです。華々しい都市部における成長の反面、農村は大きく取り残されています。インドのWTO加盟によって、綿花の価格が大きく下落し、綿花栽培を生業とする多くの農民たちが借金を返せずに自ら命を絶っている事態が生じているようです。

 こうした農民たちの支持を取り付けるために、農民たちにサリーやテレビを配るといった露骨な人気取りに走る政治家も出ているようですが、それだけ、農民からの支持というのが絶対的な意味を持っているわけです。

 経済成長の陰で、多くの農民たちは、開発のために土地を強引に奪われていく事態もしばしば起こっているようで、インドの政治情勢を不安定化させる大きな要因となっていることが窺えます。


 このように、本書を読むと、インドの経済発展が様々な歪みを内包しながら進行していることがよく分かります。欧米並みの物に溢れた生活を享受する中間層がいるかと思えば、その足元には、未だスラム街が広がっている、そんな光景があちこちに見られるわけです。

 しかも、インドは、これだけの強引な開発を進めているにもかかわらず、選挙によって政権が左右される民主主義国家であることは大きな驚きといえます。この点が政治情勢を不安定なものにしている面も否定できないわけですが、他方では、発展に取り残されている大多数の農民たちが政権の基盤を左右しているわけですから、政府もこうした農民たちの存在を無視することは絶対にできないわけで、その意味では、同様に急速な発展を遂げている中国などに比べれば、大いに健全だともいえるわけです。

 もう1つ、今日のインド社会で興味深いのは、急速な近代化が、数々の宗教を始めとする前近代的な部分とが混在している状況にあるという点です。これから先、インドの前近代的な部分が消滅していくとは考えにくく、そういう意味では、インドは近代と前近代の共存という大きな試練に直面しているわけです。

 今後、こうした近代と前近代の共存を図りながら、近代化を進めていくということをインドが実現していくことができるのであれば、それは西欧文明とは異なった文明の1つの在り方という意味で、我が国としても大いに参考にすべき社会となるのではないかと思います。

 これからのインド社会の進展を注視していく必要がありそうです。