- 作者: ミランクンデラ,Milan Kundera,千野栄一
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1998/11
- メディア: 文庫
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プラハの優秀な外科医であるトマーシュは、妻子と別れた後、テレザという恋人と一緒になっていた。テレザはレストランのウェイトレスをしていたときにトマーシュと偶然出会い、トマーシュを追ってプラハに出てきた。しかし、トマーシュにはサビナという絵を描いている愛人おり、そのことが、テレザを苦しめていた。
そんなときに、プラハの春があり、そしてソ連軍がチェコに介入してきた。サビアはスイスに亡命する。そして、トマーシュもテレザと共に亡命するが、テレザは手紙を残してプラハに戻ってしまい、トマーシュもテレザを追ってプラハに戻っていく。
他方、スイスに移住したサビアには、フランツという学者の愛人がいた。フランツには妻と娘がいたが、サビアの前では子供のように幼くなるのだった。サビアが去ってしまった後、フランツは大きなめがねをかけた女子学生と一緒になるが、サビアへの思いをぬぐい去ることができず、タイのカンボジア国境へと進んでいく大行進に参加する。
トマーシュとテレザはチェコに戻ったが、トマーシュはある週刊新聞に次のような内容の投稿をした。それはオイディプースの話を元にしたものだった。オイディプースは、幼い頃に捨てられて育ったが、若者に成長した後、山道で馬車に出会い、馬車に乗った高官を殺してしまう。そして、オイディプースは後に女王イオカテスの夫となり、テーバイの統治者となったのであるが、実はオイディプースが殺した高官は実の父であり、結婚したイオカテスは実の母であった。オイディプースはこの悲劇が臣下たちの苦しみの原因であることを知り、針で目を刺し、盲目となってテーバイを去っていった。
トマーシュはこのオイディプースの話をチェコの共産党員たちに結びつけて論じた。告白された共産党員たちは、われわれは知らなかった、われわれは欺かれた、だから無罪である、と叫んでいる。しかし、トマーシュに言わせれば、知らなかったからといって無罪である理由にはならない。見る目がなかったというのであれば、オイディプースのように目を刺して去っていくべきではないか。
この論文を書いたおかげで、トマーシュは外科医の仕事を失い、テレザと共に田舎に引きこもり、窓拭きの仕事に就くことになる。
本書は、まずその題名に惹かれてしまうのですが、さらに作品の冒頭で、いきなりニーチェの永劫回帰が持ち出されてきて、度肝を抜かれます。
「われわれの人生の一瞬一瞬が限りなく繰り返されるのであれば、われわれは十字架の上のキリストのように永遠というものに釘づけにされていることになる。このような想像は恐ろしい。永劫回帰の世界ではわれわれは一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある。これがニーチェが永劫回帰という考えをもっとも重い荷物と呼んだ理由である。
もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況の下では素晴らしい軽さとして現われうるのである。
だが重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか。」(p8−9)
こうして「軽さ」と「重さ」の問題が提起されてきます。本作品の中では、「軽さ」と「重さ」の対比が執拗に持ち出されてきます。ギリシアの哲学者パルメニデースは「軽さ」が肯定的で、「重さ」が否定的だとした。他方、クワルテットの最終楽章で、“Es Muss Sein!”(そうでなければならない!)と言っているベートーベンにとっては、「重さ」はむしろ肯定的なものであった。この「軽さ」と「重さ」の対比がこの物語の大きな柱となっています。
クンデラ自身、自らの政治的主張によってチェコの国籍を剥奪されているなど、人生の「軽さ」「重さ」のいずれが良いことなのかについて深く考える場面が多かったのでしょう。
この物語のトマーシュも、自らの政治的主張によって、外科医という職業を剥奪されて、田舎での質素な生活を余儀なくされることになります。そんなトマーシュの立場を通じて、人生にとって何が重要か、軽いことがよいのか、重いことがよいのか、という深遠なテーマが読者に投げかけられているような気がします。