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映画、書評、ジャズなど

「カッコーの巣の上で」★★★★★

カッコーの巣の上で [DVD]

カッコーの巣の上で [DVD]

 1976年のアカデミー賞部門を獲得した名画です。久しぶりに見ましたが、何度見てもその素晴らしさに感服する作品です。
 ジャック・ニコルソンの極めて素晴らしい演技もさることながら、<狂気>と<理性>の峻別という近代的な概念に根本的な疑問を投げかけている点が本当によくできています。60年代以降ベトナム戦争の影響で病んでいた当時のアメリカ社会では、何が正しくて何が正しくないかといった価値が溶融していた状況にあったわけで、そうした世相を反映した作品ともいえるかもしれません。

 ある精神病院にマクマーフィ(ジャック・ニコルソン)という男が連れてこられた。マクマーフィは刑務所で服役中であったが、強制労働を逃れるために気が狂ったふりをしているのか、本当に気が狂っているのか判別が付かず、この精神病院で様子を見ることになっていた。
 病院にはラチェッドという婦長がいて、入院患者に対して強権的な態度で接し、絶対的な服従を強いていた。しかし、マクマーフィは、精神病院に入院している連中をまとめ上げ、バスケット・ボールを指導したり、ある時は刑務所のバスを乗っ取って海へ出かけて、恋人を頼りつつ連中をクルーザーに乗せて釣りに出かけたりするなど、破天荒な行動を繰り返していた。

 やがてマクマーフィは、精神病院を抜け出すことを決め、病院生活最後の晩となると思われる夜に、恋人の女性2人を病院内に連れ込み、酒を持ち込んで、入院している連中と一緒にパーティーを繰り広げた。マクマーフィはそのまま病院を抜け出すはずだったが、結局酔いつぶれ、翌朝、婦長らに見つかり、マクマーフィは病院を抜け出すことに失敗する。

 パーティーの際、マクマーフィは、気弱でどもりがちな青年のビリーに自分の恋人をあてがい、初体験を経験させるが、翌朝、ベッドの中で抱き合っているところを婦長らに見つかり、ビリーは自殺を図る。その光景を見て憤ったマクマーフィは、婦長に襲いかかり、首を絞めて殺そうとする。

 最後、マクマーフィは電気ショック療法にかけられ、完全に人間性を喪失してしまう。インディアンの患者であるチーフは、そんなマクマーフィの姿を見て、一緒に病院を抜けだそうと呼びかけるが、マクマーフィはそれに応答することもできない状態となってしまっていた。チーフは咄嗟にマクマーフィの首を絞めて殺した上で、1人病院を抜け出して自由の身となる・・・。

 この作品が投げかけている根本的なテーマは、<狂気>と<理性>の峻別への批判にあると言えるでしょう。<狂気>を象徴するのはもちろん精神病院に入院している患者たちで、<理性>を代表するのが病院の婦長です。一旦<狂気>のレッテルを貼られるた患者たちは病院に監禁され、<理性>の側の世界からは厳しく峻別されます。しかし、この作品の突きつけるテーマは、<狂気>と<理性>というのはそんなにはっきりと峻別できるものなのだろうか、という点です。

 この問題意識は、マクマーフィが入院している連中に投げかける次の言葉に端的に表れています。

「お前達が精神病だなんてとんでもねえ話だ。お前達、町のその辺の連中と大して変わらんぜ。」

 確かに、入院患者たちは、極度に自信がない青年だったり、すぐにパニックを起こす壮年の男性だったりして、沈着冷静な婦長たちと比べると、現代社会を生き抜く上で困難を抱えている人たちです。しかし、そうした違いというのは、<狂気>というレッテルを貼ることによって厳格に峻別し、社会から隔離すべきものであるというほどの決定的な違いなのか、というのがこの作品が投げかける最大のテーマです。

 例えば、入院患者の1人であるインディアンで身長が高いチーフという男は、皆からは耳が聞こえず、しゃべれない男だと思われているわけですが、実はそれは演技であったことが途中で判明します。頭で考えていることはしっかりしているわけですが、いつしか精神病院で生活するようになってしまったわけで、<狂気>というレッテルがいかに脆いものかを象徴しています。

 この辺の問題意識は、もちろん、『狂気の歴史』を著したフーコーの問題意識とつながっていきます。フーコーは、<狂気>という概念が極めて近代的な概念であることを論証しています。

狂気の歴史―古典主義時代における

狂気の歴史―古典主義時代における

 桜井哲夫氏の『フーコー 知と権力』によれば、フーコーは、インタビューの中で次のように説明しているとのことです。

「狂気は、未開の状態では、発見されることはありえません。狂気は、ある社会のなかにしか存在しないのです。つまり、狂気というのは、狂気[とされるもの]を孤立させるような感情のあり方、狂気[とされるもの]を排除し、つかまえさせるような反感(嫌悪)のかたちがなければ、存在しないのです。こうして、中世において、そしてルネッサンスにおいても、狂気は、一つの美学的ないし日常的な事実として社会の視野のなかに立ち現れていたのだと言えます。そして、十七世紀において―ここから監禁が始まります―狂気は、沈黙と排除の時代を経験することになります。」(桜井哲夫フーコー 知と権力』p103−104から引用)

フーコー (「現代思想の冒険者たち」Select)

フーコー (「現代思想の冒険者たち」Select)

 17世紀より前の時代にあっては、<狂気>は人間の内面に内在するものとして捉えられており、それを排除しようという発想はなく、それは神聖なものとして捉えられてすらいたのです。それが、17世紀以降、次第に<狂気>は排除・監禁の対象となっていったという歴史があったというわけです。

 こうして見てくると、<狂気>という概念自体が決して確固たるものではなく、近代という時代に特有の捉え方であるということが明らかになってきます。

 この映画が製作された時期の前後も、世界的に<近代>に対する疑念が生じつつありました。60年代後半以降、ベトナム戦争に対する反戦運動の盛り上がり、ヒッピーの出現、我が国でも公害問題の深刻化、といった様々な問題が湧き上がってきています。そうした情勢の中で、この作品は、近代的な概念である<狂気>の捉え方に疑念を呈しているのです。

 この映画の中で、マクマーフィは<狂気>を演じているのかどうかの判別がつかないという設定となっています。しかし考えてみれば、マクマーフィが<狂気>を演じているかどうかというのは大した問題でないばかりか、<狂気>と<理性>の境界自体が怪しいとすれば、<狂気>を演じるという概念自体が本当に成り立つものなのかどうかも怪しくなってきます。にもかかわらず、マクマーフィを<狂気>だと決めつけて、電気ショック療法を施すことによって、マクマーフィは<人間性>を完全に喪失してしまったわけで、近代の精神病理学に対する痛烈なアンチテーゼとなっています。

 この作品は様々な観点からのテクストの解析が可能であると思われ、そういう意味でも後世に引き継がれていく作品だと思います。