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「猿の惑星」★★★☆

 宇宙船に乗って高速で旅をした後、3人の宇宙飛行士がある星にたどり着いた。地球時間ではすでに2000年経過している。荒涼とした砂漠を抜けていくと、そこには、人間よりも猿の方が進化した社会があった。

 宇宙飛行士たちは猿たちによる人間への襲撃に巻き込まれ、猿に捕らえられてしまう。宇宙飛行士の1人であるテイラーチャールトン・ヘストン)は、猿たちから野獣としての扱いを受けるが、唯一ジーラという女猿の博士だけが、口がきける人間としてテイラーに理解を示していた。

 テイラーは、去勢手術を受けることとされたため、ジーラらの手助けによって脱走を試みる。そして、テイラーは、人間の姿をしたしゃべる人形を発見することによって、この星でかつて人間が高度な文明を営んでいたことを突き止める。

 猿たちに別れを告げて旅立っていったテイラーは、壊れた自由の女神の残骸を発見し、この星が実は地球であったことを知り愕然とする・・・。

 この映画では、猿たちは聖書に基づき猿が人間から進化したのだということを狂信的に信じていますが、これはキリスト教の信仰に対する痛烈な皮肉なのでしょう。人間と猿の関係を逆転させることによって、人間社会が築いた文明というものの虚構性が効果的に表現されているような気がします。

 そして、この映画を見て思うのは、地球温暖化など地球規模の問題が深刻に叫ばれている昨今の状況に重ね合わせてみると、何千年、何万年も先の地球にたどりついたら、もしかするとこの映画の設定のような光景が広がっているのかもしれないということです。地球規模の問題が深刻化して、人間たちはもはや地球上では生きられなくなっていて、代わりに過酷な状況でも生き抜くことができる生命体(それは猿ではなく、ネズミやゴキブリのような動物たちかもしれませんが)が地球上を跋扈している・・・。全くあり得ない空想というわけではなさそうです。

 今日、人間は地球史上異例な高度の文明を築き上げているわけですが、こうした文明は、人間のエゴの上に築かれているものです。例えば、今日人間社会は膨大な資源を消費し尽くしつつありますが、これはより豊かな生活をしたいという人間のエゴをベースにしているものです。逆にいえば、文明というのは、人間のエゴに逆らった方向には容易には進んでいかないということです。地球環境が厳しくなったからといって、人間社会がエゴを押し殺す方向に文明を転換させていくことは、人間の英知をもってしても極めて困難でしょう。

 そう考えていくと、この映画の世界が全くの虚構であるとも思えないような気がしてくるわけです。

 この映画が作られた1968年という年は、ベトナム戦争反戦運動が盛り上がった時期で、文明の行き詰まりが強く意識された時期です。そういう時期にできた作品だからこそ、今日見ても何か新鮮な示唆のようなものを感じます。