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保守の行き詰まり

 最近の論壇を見るにつけ、保守の行き詰まりを感じざるを得ません。

 数年前までの保守の論調にはある種の“新鮮さ”が感じられました。冷戦が崩壊する以前、長らくイデオロギー対立の時代が続く中で、いわゆる革新派の議論は単調化し、何が何でも護憲一辺倒、戦後民主主義擁護といった姿勢は多くの国民をうんざりさせました。そういう硬直した状況の中で、戦後民主主義の欺瞞を高らかに訴えた保守派の論調は、閉塞感を打ち破るような爽快感があり、私も保守派の主張に大いに魅力を感じた時期がありました。

 ところが、近年の保守の論調には、全く切れ味を感じないばかりか、むしろ保守派の方がより単調かつ閉塞的な状況に陥っているかのように感じられます。

 このことを改めて感じさせたのが、12月5日の産経新聞の正論に掲載された保守の論陣を張られている京都大学佐伯啓思教授の「現憲法下の“ねじれ”顕在化」と題する論稿です。この佐伯教授の記事を読んで、保守の行き詰まりを一層痛烈に実感させられ、失望を抱かざるを得ませんでした。

 佐伯教授の論旨は、次のような感じです。

 新テロ特措法をめぐる衆参のねじれの根本は、戦後日本が日米同盟と国際主義(国連中心主義)というふたつの外交方針を掲げてきた点に行き着く。その原因は、戦後の平和憲法に基づく日本の非武装化という事態にある。つまり、憲法の平和主義の理念は国際主義へとつながり、同時に実際上の防衛の必要は日米安保体制を生み出した。ところが、この2つの立場は、アメリカが国連の枠組みを超えて独自の行動を取ったときに矛盾をきたす。

「したがって、新テロ特措法に関する審議の膠着は容易に解消できるものではない。それは、戦後日本の外交、防衛、すなわち国の安全保障という根幹にあるほころびに起因するからだ。」

 ここまでの、佐伯教授の論旨には、私も基本的に異論はありませんし、至極もっともな主張だと思います。

 ところが、続けて佐伯教授は続けて次のように述べているのです。

「実は、安倍政権はそのほころびの是正をこそ訴えたのであった。「戦後レジーム」からの脱却とは、まさに戦後日本の「国」の根幹にかかわる憲法的なほころびを問うものであった。」

 この主張には、唖然としてしまいました。佐伯教授がここまで安倍政権を高く評価していたとは・・・ショックです。 

 安倍総理は、米国からの強い要請を受けてテロ特措法の延長を至上命題に掲げ、それが実現できないために辞任しました。そして、アメリカのシーファー駐日大使の問題提起を受けて、アメリカに向かって飛んでいくミサイルを日本が撃ち落とせるように検討することをぶち上げ、それを日米首脳会談のおみやげとして持って行きました。このように、安倍政権は極端な「日米同盟中心主義」「対米従属主義」ともいうべき方向性を次々に打ち出していたわけです。

 そうした安倍政権の姿勢のどこを捉えて「安倍政権はそのほころびの是正をこそ訴えた」などといえるのでしょうか?極端な日米同盟重視を唱えることが「ほころびの是正」だというのでしょうか?

 そもそも、私は、安倍総理の考えた「戦後レジーム」からの脱却という主張には、大きな欠陥があったのだと考えています。それは、

一方ではアメリカの影からの脱却を目指しながら、他方では、アメリカへの従属に陥る方向性を指向してしまった。

という点です。

 安倍総理の「美しい国へ」には、日本国憲法の成り立ちに対する激しい嫌悪感が随所に見られます。憲法前文の文言を「“詫び証文”」(『美しい国へ』p122)と表現したことは有名ですし、「この憲法草案は、ニューディーラーと呼ばれた進歩的な若手のGHQ(連合国軍総司令部)スタッフによって、十日間そこそこという短期間で書き上げられたものだった。」(前掲書p123)という表現にも、憲法の成り立ちに対する批判的な見方が顕著に表れています。こうした表現の背後にある問題意識というのは、当然、<アメリカの影からの脱却>であることは疑いないでしょう。

 ところが、安倍総理の思考回路を形作るもう1つ大きな要素は、<日米同盟重視>という視点です。これは安倍総理の祖父の岸信介が日米同盟の改定を推し進めたことが大きく影響しているわけですが、そして、この日米同盟をより一層万全なものにしようと、安倍総理集団的自衛権の議論を前面に押し出したわけです。

 では、<アメリカの影からの脱却>と<日米同盟重視>というのは果たして両立するものなのでしょうか。これは相当複雑な問題で、おそらく、安倍総理がこの両立について心中相当悩んであろうことは想像に難くありません。

 特に、安部政権が至上命題として掲げていた集団的自衛権の議論は、それが<日米同盟重視>の強化につながる反面、日本の自衛隊がアメリカの自衛戦争にお付き合いするというわけですから、日本はますます<アメリカの影>を背負ってしまうことにもなります。アメリカからすれば、ますます日本の自衛隊の海外出動を要請しやすくなるわけですから、日本がそれをきっぱりと断らない限り、日本はずるずるとアメリカの戦争に付き合わされることになってしまいます。しかし、アメリカからの出動要請に対して、日本はおそらく断ることはできないでしょう。なぜなら、日本国内には米軍基地があり、そのことによって日本は計り知れない心理的圧力を受けているからです。結果として、集団的自衛権の行使を認めることは、日本をますます対米追随の方向へ導くことになるでしょう。

 つまり、集団的自衛権に関する議論の落とし穴は、集団的自衛権を行使することで対等な日米関係がけっして築かれるわけではないのです。

 対等な日米関係を築くのであれば、本来その究極的な目標は、米軍基地を日本国内から出て行ってもらうしかないでしょう。本来、米軍基地の存在こそが最大の<アメリカの影>であるはずだからです。 しかし、安倍政権が米軍基地を日本国内からなくそうといったところまで展望していたとはとても思えません。それができない限り、集団的自衛権の行使を認めることは、ますます対米追随を許す結果にしかならないでしょう。

 ここに安部政権の姿勢を支持した保守の議論の最大の欠陥があったのだと思います。

 かつての佐伯教授の主張には、戦後民主主義の欺瞞を鮮やかに切り捨てる爽快感がありました。その矛先は、アメリカ一国主義にも向けられました。そういう佐伯教授が、安倍政権が無惨に崩壊した後も、安倍政権の「戦後レジーム」からの脱却という矛盾にまみれた思想を賞讃し、安倍政権の残像をノスタルジックに追い続けている姿を見ると、かつて革新勢力を思考停止と批判した保守派が今度は思考停止に陥っているかのようです。

 保守派が安倍総理という人物に長年の悲願を全て託し、その安倍総理が保守の内包する矛盾を克服できないまま失脚した時点で、保守派は一つの時代の終焉を迎えてしまったのかもしれません・・・。