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古くて新しい命題

 労働の擁護: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)経由で、労働の擁護 - Critical Life (期限付き)の記事を拝見しました。

「各種の「原因」で倒産したり傾いたりする企業にしても、労働者の立場に立った別の再建計画を捻り出せるし捻り出すべきではないのか。マックの時給を数百円でも上げる方策を捻り出すべきではないのか。過労死の労災認定も結構だが、それ以前に企業の生産性向上と労働者の自由・余暇を両立させる新制度を命がけで考え出すべきではないのか。」

との指摘には、「よくぞ言ってくれた!」と思わず叫びたい気持ちになりました。

 ちなみに、この記事を書かれているのは、立命館大学教授の小泉義之さんという方のようです。

 そもそも、1960年代から70年代にかけての時代、多くの人々が、近い将来、飛躍的な技術革新によって生産性が高まれば、労働時間が格段に減る「余暇時代」が到来すると真面目に考えていました。そして実際、企業の生産性は高まっているわけですが、にもかかわらず労働者の労働時間がそれに見合うだけ減少しているかといえば、そうはなっていません。本来、企業の経営者たちは、生産性が増大した分のもっと多くを労働者の労働時間の削減に還元してもよいはずなのに、です。

 さらに90年代以降、企業の経営者たちは株主利益重視の名の下、労働者の立場を親身に考えなくてもよいという免罪符を与えられたかのような振る舞いを見せるようになっています。株主利益のために短期間で収益を上げることばかりに目をとられ、労働者の労働環境を真面目に考える企業は減っていることは否めません。労働時間の削減という命題も、古い時代の遺物であるかのような扱いを受けています。

 他方、労働者の側も、労働時間など労働環境の改善を訴える声は日増しに小さくなっているような感じを受けます。労働組合活動などはもはや共産主義の亡霊くらいにしか思っていない労働者たちも大勢いるのではないでしょうか。労働者が団結して経営陣と闘うという構図が、多くの労働者たちにとって嫌悪の対象にすらなっているような気がします。

 こうした状況の中、労働者の生きがいやライフプランについて、当の労働者自身も含めてもはや誰も顧みなくなってしまっているのではないでしょうか。ひどいものになると、正社員であることは既得権益であるかのような論調すらはびこっています。

 私は、今日、労働の意義を立て直していくことは、相当な困難が伴う作業だと考えています。したがって、直ちに多くの労働者が労働に生きがいを見出せるような状況が到来することは、おそらくあまり期待できないだろうと思っています(もちろん、そうした状況の到来に向けて努力を積み重ねていくことは重要だと思っています。)。であるならば、労働者は、もう少しゆとりを持った生活を送れるよう、労働時間の削減、そして余暇の増大を目指してもよいのではないかと思います。そして、経営者たちは、労働者の余暇の増大にもっと目を向けるべきではないかと思います。労使双方の知恵を出し合ってもそれができないというのであれば、最後は政府が強制的な労働時間規制をかけるほかはないのではないかと私は思っています。

 よく聞かれる反論としては、労働者はより豊かな生活を送るために、好き好んで長時間労働をしているのだ、という主張があります。つまり、市場原理の中で労働者が選択した結果、労働時間が長くなっているのだから、何が悪いんだといった論調です。しかし、それは現実を見誤っていると言わざるを得ないでしょう。なぜなら、多くの労働者にとって、収入を多少減らしてもよいから労働時間を減らすのだという選択肢はほぼないからです。そんな融通の利いた働き方を労働者は許容されてはいません。

 労働と余暇の両立

 正に古くて新しい命題です。そして、それは、何十年もの間、日本社会が悩み続けてきて、いまだに解決されていない問題でもあります。