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福岡伸一「生物と無生物のあいだ」

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

 先日発表されたサントリー学芸賞の社会・風俗部門を受賞した本です。

 その書かれている内容は生物学の高度なものであるにもかかわらず、文体は大変平易で、しかも著者の類い希なる筆力によって大変スリリングな展開の連続といった感じになっています。

 サントリー学芸賞の選評の中で、養老孟司氏が、

「理科系ではない選考委員から、文章がいい、品があるという評があった。その通りだと思う。適度の抑制を効かせ、しかも感情(熱情?)をまじえて語るのは、科学の分野では簡単にはできないことである。著者のその面での才能は貴重である。」

Suntory News Release No.9957
と述べておられるのは全く的確な評だと思います。

 本書は、筆者の体験談を軸に生物学における興味深いエピソードが交えられて話が進んでいく展開になっています。冒頭から、筆者がかつて所属したロックフェラー大学における野口英世像が、日本における野口英世に対する評価とおよそ異なっているという衝撃的な話が登場してきます。そして、常に筆者の脳裏に焼き付いている問題意識は、本書のタイトルにあるとおり、何が生物と無生物を分けるメルクマールとなっているか、という問いです。筆者は、生命とは「自己複製を行うシステムである」という通説的な見解に対し、不十分だとします。例えば、ウイルスというのは一切の新陳代謝を行っていないものの、細胞に寄生することによって自己複製する能力を持っている。しかし、筆者に言わせれば、ウイルスは生物ではない、というわけです。なぜか?この問題に関連して、以降の話は進んでいきます。

 さて、DNAが遺伝子だと世界で最初に気付いたのはオズワルド・エイブリーという人物です。彼は、肺炎双球菌の観察からDNAが生命の形質を転換させる働きを持つことを突き止めます。その後、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックは「DNAは単なる文字列ではなく、必ず対構造をとって存在している」ことを突き止めます。対構造をとることによって、DNAは鎖のうちのどちらかが部分的に失われても他方をもとに容易に修復することができるわけで、つまり「情報の安定性を担保する」ことができるというわけです。

 では、DNAがらせん構造であることはどのようにして解明されたのか?本書ではこの件に関する興味深いエピソードが紹介しています。

 DNAがらせん構造であることを突き止めたワトソンとクリックは、1953年4月25日号の『ネイチャー』にこの点を解明した論文を掲載しています。しかし、問題は、クリックが、ロザリンド・フランクリンという女性研究者の研究データを覗き見していたという事実です。彼女は自らの研究資金を提供してくれている機構に対して詳細な年次報告書を提出しており、それが「ピア・レビュー」によって間接的にクリックの手に渡り、それを見てクリックは、DNAはらせん構造をとっているという自分たちのモデルの正しさを確信することができたというわけです。

 結局、ワトソンとクリックらは1962年にノーベル賞を受賞したのに対し、ロザリンドはそれ以前の1958年に、研究のためにX線を無防備に浴びすぎていたことが原因と思われるガンに侵されて37歳の若さで亡くなっていた・・・、何とも切ない話です。

 さて、ここから冒頭の筆者の問題意識の核心に入っていくのですが、筆者は生命の「動的平衡」という考え方を執拗に強調します。私たちの感覚としては、肉体は外界と隔てられた個物としての実体があると感じるわけですが、実はそうではなく、生命体の実体は常に入れ替わっているのです。

「私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この流れ自体が「生きている」ということであり、常に分子を外部から与えないと、出ていく分子との収支が合わなくなる。」(p163)

 こうした事実は、ルドルフ・シェーンハイマーという人物が証明したものです。

 このことから、生命の定義は次のように再定義されます。

「生命とは動的平衡にある流れである。」(p167)


 私は、自然科学の本を比較的読まない方なのですが、本書は久しぶりに自然科学の本を手に取ったもので、しかも大変興味深いエピソードの連続で、あっという間に読み終えてしまいました。

 思い返せば、私自身の中でも、生命とは何か、という問いは随分昔に大きなテーマだった時期がありました。本書でも登場するエルヴィン・シュレーディンガーという人物は『生命とは何か』という本の中で、生命現象は最終的にはことごとく物理学あるいは化学の言葉で説明しうる、と予言しているようで、それが多くの生物学者たちを鼓舞したようですが、私も中学生くらいの時分に、生命活動というのは単なる化学的現象に過ぎないのではないか、という思いにかられ、仮にそうであるとしたならば生きているということは一体何を意味するのだろう、と真剣に悩み、独り憔悴したことを鮮明に記憶しています。もしかすると生物学者は、常にこうした根源的な問いとの間で葛藤を繰り広げているのかもしれません。

 今日の私は、かつてエルヴィン・シュレーディンガーという人物が予言したように生命現象は最終的に物理学や化学の言葉でことごとく説明しうるという時代がやって来ることはないと確信しています。もちろん、生物学の発展によって、物理学や化学の言葉で説明しうる余地は今後とも格段に増えていくことでしょう。しかし、人間の精神や思考という現象については、決して物理学や化学では説明できない部分が存在し続けるのだろうと思いますし、逆に人間の精神や思考が物理学や化学で全部説明できたら、これほどつまらないことないでしょう。物理学や化学で説明できないからこそ、人間社会は奥が深く、様々な人文科学や社会科学を研究する醍醐味があるわけですから。

 自然科学が生命誕生の神秘やその必然性については解明することも決してできないのではないかと私は思っています。生命の根源的な部分を科学が説明できないから、宗教は科学が飛躍的に発達した今日においてもなくなっていないのです。

 話はだいぶ本題と逸れてしまいましたが、本書で取り上げている生命とは何かという問いは、他の様々な学問分野にも大きなインスピレーションを与えてくれるものですので、この本は是非多くの方に読んでほしいという気がします。