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岩井克人「会社はこれからどうなるのか」

会社はこれからどうなるのか

会社はこれからどうなるのか

 本書を読んだとき、何かもやもやとしたものを分かりやすくスパッと解説してもらった爽快感を感じたことを鮮明に覚えています。出版されてからもう4年以上経ちますが、あえて御紹介したいと思います。

 本書は、「差異性」というキーワードを中心として資本主義の本質を探りつつ、これからの会社像を論じたものです。

 本書が出た当時、我が国は景気の低迷に陥り、企業はリストラを始めているような状況でしたが、それが消費需要と投資需要の下落により、日本の会社の収益率をさらに低下させるという「合成の誤謬」が生じていました。岩井氏は、こうした現象が起こっている背景として、日本経済は今大きな構造変化のまっただ中にいる点を指摘しています。その変化とは「グローバル化」「IT革命」「金融革命」の3つです。そして、全世界を巻き込んでいるこの潮流が、日本の経済にはマイナスに働いているとし、その原因は、日本の会社構造が、アメリカ型やヨーロッパ型の会社とは違っている点にあるとして、幅広い観点から日本の会社の分析検討を行っています。

 会社あるいは法人とは何か?という問いは太古の昔から議論されてきた問題ですが、岩井氏は株式会社の特徴について、株主が法人としての会社を所有し、その法人としての会社が会社資産を所有するという「二重の所有関係」として表現しています。これはすなわち、法人とは、モノに対してはヒトとしての役割を果たし、ヒトに対してはモノとしての役割を果たしているということです。これは、個人が共同事業を営む場合に必要となる契約関係を簡素化するために導入された法律上の仕組みといえますが、外部との関係が簡素化される結果として内部の構造が複雑化することになったわけです。そして、こうした法人は、本質的に公共的な存在、すなわち「社会の公器」でなくてはならず、他者による承認が必要であるため、国家が法律によって制度化しているわけです。

 ここで問題となるのが、株式会社が効率的に経営するために経営者の仕事をどのようにコントロールすべきか、すなわちコーポレートガバナンスの問題です。かつてバーリとミーンズは「所有と経営の分離」という概念を指摘し、アメリカにおける大会社の株式は無数の大衆株主の間に分散され、その経営は株式をほとんど所有していない専門的な経営者によって支配されるようになったと主張し、いかにして株主主権を取り戻し、専門的な経営者が株主の利益に忠実な行動をとるようにできるかという問題を提起しました。これがアメリカにおけるコーポレートガバナンス論の始まりなわけです。

 そもそもコーポレートガバナンスの基本は、経営者の忠実義務や注意義務といった信任義務だったわけですが、こうした問題提起を受けて出てきた議論は、経営者を株主にしていまうことで株主主権を復活させようとするものでした。こうして、アメリカにおけるコーポレートガバナンスの基本理念は、アダムスミスのいう「自己愛」に忠実に訴えることで、経営者を倫理性への配慮からすべて解放してしまうことになったというわけです。

 しかし、岩井氏は、こうしたアメリカ型のコーポレートガバナンス制度は本質的に矛盾した制度であると主張し、こうしたコーポレートガバナンスは会社が「社会の公器」であることを否定することを意味するわけで、まさに不正への招待状以外の何ものでもないと述べています。

 岩井氏は次に日本の会社の特徴について分析し、日本の会社はけっして資本主義や会社法の論理と矛盾しているわけではないことを主張されています。法人論争は大きく「法人名目説」と「法人実在説」に分けられますが、これは先ほど見た法人の二重性に対応しており、法人のモノ性のみを強調したのが法人名目説であり、法人のヒト性のみを強調したのが法人実在説であることが分かります。

 株式会社制度の創設当時は、ほとんどが有力者が株式の100%近くを保有して実質的に会社の経営をコントロールするといった名目説的な会社だったのが、やがて大規模な機械設備を必要とするようになると、株式市場を通して一般大衆から大量の資本を集めるようになり、所有と経営の分離が始まったわけです。しかし、20世紀の後半になると、今度は再び名目説的な会社が資本主義の最前線に登場するようになりました。それが顕著に表れているのが会社買収という行為です。

 しかしながら、こうした会社買収行為を通じて、世界的に名目説的な会社が拡がっていく一方で、会社を純粋にヒトにする仕組みも現れました。それが、持ち株会社です。ヒトである会社はモノである会社を所有することができるわけです。そうなると、原理的には会社が自分の会社の株を保有するということが考えられます。日本では自社株買いが2001年に解禁されましたが、それは金庫株となり、株主総会の議決権は失われてしまいます。また、会社法では子会社は親会社の株式の保有は禁じられています。ところが、複数の会社が集まってグループを作り、それぞれの株式を少しずつ所有することで、グループ全体として他のヒトの支配を受けない所有構造を作ることが可能となるわけです。これがいわゆる「株式の持ち合い」です。これは正に法人実在説を現実化した資本主義であったといえます。要するに、アメリカやイギリスの資本主義が法人名目説を現実化したものであるのに対して、日本の資本主義とは法人実在説を現実化したものであったわけです。

 さて、サラリーマンは伝統的な経済学の枠組みにおいては、単に会社の外部の契約相手に過ぎません。しかしながら、サラリーマン本人の意識のみならず、社会一般からも会社内部の人間としてみなされています。岩井氏は、このようにサラリーマンが会社と自分たちを同一視しているのは、サラリーマンは組織特殊的な人的資産に投資している人間だからであるとしています。

 組織特殊的な人的資産は、そのヒトが当該組織から離れてしまったらその価値を失ってしまうものであるため、そうした組織特殊的な人的資産を蓄積している人間は、組織と運命を共にすることになるわけで、当然自分をその組織の内部の人間と考えるようになるわけです。そして、法人実在説的な会社は、そうした組織特殊的な人的資産の事実上の所有者としての役割を果たしているわけです。

 しかしながら、仮に経営者がそうした投資をしている従業員に対して賃金や退職金の上乗せなどの便宜を約束していたとしても、その会社が敵対的な買収に会ってしまえば、そうした約束は反故にされていまします。これが「ホールド・アップ問題」と呼ばれるもので、1980年代のアメリカでは正に従業員に優しい会社こそ乗っ取りの格好のターゲットになったわけです。

 そこで、ヒトとしての会社が登場するわけです。法人実在説的な株式会社においては、ヒトとしての会社が組織特殊的な人的資産の事実上の所有者となって、外部の株主によるホールド・アップから防衛してくれるため、組織特殊的な人的資産の蓄積が強くうながされることになるのです。岩井氏によれば、日本においてこうした組織特殊的な人的資産は、国内総生産の2割近くあるかもしれないと述べています。

 さて、岩井氏は、次に日本の会社の歴史的成立過程について分析を行っています。戦後、アメリカ占領軍は経済構造の民主化を図る目的で、財閥の解体を命じました。これによって、日本の株式はアメリカのように大衆に分散されたわけですが、株式の持ち合いが許されるようになると、同一グループの企業の経営者は、メインバンクを中心として、取引関係の安定化と所有関係の安定化を図るために、互いに株式を持ち合うようになり、専門経営者が実権を持つ会社システムが作られるようになりました。さらに、1960年代に入ると、株価の下支えや外国人による乗っ取り防止を目的として安定株主工作が進められ、1960年代に、株式の持ち合いを通じて外部の株主の支配から自立する日本型の会社システムが完成したわけです。

 では、なぜ日本においては、アメリカ占領軍の意図に反して、アメリカ型とは異なった会社システムが成立したのでしょうか。岩井氏は、その理由を、江戸時代における商家のあり方と戦前の財閥グループのあり方の共通性に求めています。これらの共通点は、それらがあたかもそれ自体がヒトとしての主体性を持っているかのように存在していたという点です。戦後、再び会社という組織を作り直していく時に、江戸時代の商家や戦前の財閥のあり方に影響を与えた「家」という組織が強力に作用したというわけです。

 こうした法人実在説的な会社においては、組織特殊的な人的資産の蓄積が強く促される傾向にありますが、戦後日本の雇用システムを特徴づけてきた終身雇用制、年功賃金制、会社別組合は、正に組織特殊的な人的資産の蓄積をうながすための制度的な仕組みです。こうした日本的な雇用システムの原型は、江戸時代の奉公人制度に求められます。日本において会社に関する法律が制定されたのは1890年ですが、それが急速に普及したのは、会社という制度が日本の「家」制度となじみやすかった点にあるわけです。さらに、加えて、当時の日本は、エリートを民間企業に引きつけるために、会社という「社会的な公器」を制度化する必要があった点も岩井氏は挙げています。

 現在、グローバル化、IT化、金融革命といった潮流の中で、こうした日本型の資本主義システムが苦境に陥っているわけですが、その理由を考えるために、岩井氏は資本主義の歴史を振り返っています。

 資本主義の歴史は古く、太古の昔から「商業資本主義」という形で存在していました。これは、地理的に離れた市場の間に入り込み、一方の市場で安いモノを購入し、それを他方の市場で高く売るといったように、2つの市場の間に存在する「差異」を利潤として得るものでした。この差異性から利潤を生み出すといった原理は、すべての資本主義に通用する資本主義の一般原理なのです。

 それが、産業革命以降になると、「産業資本主義」が成立し始めました。これは、労働生産性実質賃金率との間の「差異」に利潤の源泉を求めるものです。この資本主義が成立するためには、生産力以下の安い賃金で働く大量の労働者の存在が必要不可欠ですが、それを歴史的に保証したのが農村における過剰人口、すなわち「産業予備軍」の存在だったというわけです。

 こうした産業資本主義は、産業革命以降世界を支配してきたわけですが、1970年代に入ると先進資本主義諸国においては終わりを告げるようになってきました。それは、産業予備軍を使い切ってしまい、農村の過剰人口が枯渇してしまったということなわけです。

 資本主義が資本主義であり続けるためには、意識的に差異性を作る出さなければならないわけで、それが現在進展中の「ポスト産業資本主義」という事態だとしています。すなわち、それぞれの授業が永続的に利潤を生み出していくために、たえず新しい製品や新しい組織形態、新しい市場を追求せざるを得ないという事態なわけです。

 そして、グローバル化、IT革命、金融革命といった現象も、正にポスト産業資本主義の3つの現れ方に過ぎないと岩井氏は述べています。

 差異性を意識的に作り出していくことによって利潤を生み出していくというポスト産業資本主義の利潤創出方法を突き詰めていくと、それは「情報の商品化」につながるわけです。そして、情報技術の進展を促しているは、正に情報の商品化なわけです。つまり、資本主義のポスト産業資本主義化が、情報技術の発展を促しているというわけです。
 また、グローバル化についても、国内で産業資本主義の原理が有効性を失ったことで、世界全体を舞台として産業資本主義の原理を追い求めた結果が貿易の自由化であり、資本移動の自由化であり、グローバル化にほかならないというわけです。

 さらに、産業資本主義の時代においては、農村の産業予備軍のおかげで、おカネさえ持っていればほぼ自動的に利潤を手に入れることができる構造があったのが、ポスト資本主義の時代になると、おカネを持っている者が単に機会制工場のオーナーになっているだけでは利潤が得られないため、おカネが媒介できる何らかの差異性を見つけなければならなくなり、それがグローバルな金融市場に成長していったとしています。このような金融市場の飛躍的な急拡大こそ金融革命と呼ばれている事態です。その背後には、資本主義の基本原理を意識化してつねに新しい差異性を求め続けていかなければならないポスト産業資本主義の力があるというわけです。つまり、おカネが世界中を動き回るようになったのは、おカネの支配力が増したからではなく、逆におカネの支配力が弱まったことの結果にほかならないということが言えるわけです。 

 日本においては、産業資本主義の衰退は高度経済成長期の終わりと時期が同じであるとしています。そうすると、1970年代以降の日本はポスト産業資本主義的なあり方へと移行せざるを得ない状況に陥っていたわけですが、80年代初頭までは、外国の技術を模倣・改良することによって、賃金の上昇率を上回る生産性の上昇率を生み出すことができたため、産業資本主義的に利潤を生み出すことが可能でした。ところが、80年代後半になると、そうした技術のストックが底をついてしまい、日本経済は産業資本主義の行き詰まりに直面せざるを得なくなったというわけです。

 一方、アメリカにおいては、会社を新たに設立するよりも既存の会社の市場価値と資産価値の差異性を媒介した方がより多くの利潤を得られるようになったことから、65年当たりから会社の買収合戦が盛んになるなど、70年代初頭においてポスト産業資本主義への本格的な移行が始まったとしています。しかし、アメリカの資本主義が経験した低迷に比べると、日本の資本主義が陥っている低迷の方がはるかに長期で深刻です。それはなぜでしょうか。

 第二次産業革命の特徴は、大規模な機械設備を必要とすることですが、これは他方で組織特殊的な人的資産を体現した熟練労働者や工業技術者や専門経営者を育成することが必要だったのです。日本型の資本主義はこうした状況に高度に適応したものだったのです。しかしながら、日本の資本主義は、産業資本主義に対応したあまりにも高度な会社システムを築き上げてしまったことにより、それだけポスト産業資本主義への転換に当たり大いなる困難に直面しているということが言えるわけです。

 それでは、ポスト産業資本主義においては、会社はどのようなものになるのでしょうか。これは正に全世界が模索しているものです。

 今起こりつつあるグローバル化という現象は、グローバルな競争により、様々な差異性を消し去り、世界中のモノを標準化してしまう傾向があります。また、金融革命も、おカネの融通方法の標準化をもたらすものです。そして、IT革命は、オープン・アーキテクト化、すなわち製品や技術デザインをいくつかの独立したブロックに分解するとともに、その間をできるだけ規格化されたインターフェイスで連結することによって、モノを生産する技術やその技術を開発するプロセスを標準化し、さらにそうした情報を全世界的に標準化させているわけです。

 つまり、ポスト産業資本主義においては、モノもカネも情報もすべて標準化されてしまう強い傾向があり、その中で差異性を意識的に作り出していかなければならないという「矛盾」がその本質にあるというわけなのです。つまり、すべてが標準化されてく傾向の中で、いかに差異性を創り出し、いかに差異性を確保していったらよいのか、というのが、ポスト産業資本主義における会社組織のあり方を考えることなのです。

 岩井氏は、こうした中で会社組織のあり方としては、2つの方向があるとしています。それは大きくなることと小さくなることです。情報の流通については、「デファクト・スタンダード」の原理が働きます。これによって、少数の製品や会社が市場を支配してしまうことになるわけです。そうすると、会社は大きいこと追求すればよいかというと、必ずしもそうではありません。その鍵が「コア・コンピタンス」、すなわちほかの会社が容易に模倣できない独自の差異性を創造し拡大していく能力です。この観点からは、会社は自分が比較優位を持っている製品や部品の生産・開発に専念するという戦略をとったり、ニッチ市場を確保しようとしたりするわけです。

 つまり、ポスト産業資本主義における会社組織は、おおざっぱに二極分解していく傾向にあると岩井氏は述べています。

 そうした中で、会社という組織形態はどうなっていくのでしょうか。ポスト産業資本主義における最大の利潤の源泉は、差異性を創り出していくことのできる人間の知識や能力です。企業は、差異性を持つ知的資産を絶えず生み出していくことのできる個性的な組織を築き上げる必要があるのです。これは、正にコア・コンピタンスです。そして、企業組織が個性的であればあるほど、その組織の一員として働くために投資しなければならない組織特殊的な人的資産が大きなものになっていくわけです。

 そうすると、会社制度は、株主主権的な会社から共同体的な会社へ転換していくと考えられるわけです。
 ここで、こうした会社を作っていく際の金銭的なインセンティブとして考えられるのが、従業員株式オプション制度です。これは、株主主権論に基づいて経営者に与えられる株式オプションとは全く異質のものです。それは、会社は株主だけのものではなく、会社に対して組織特殊的な人的投資をしている様々な参加者のものであるという「会社共同体論」と強い親和性を持っているものです。ただし、この制度は、株価が乱高下することによるギャンブル的な色彩も強く、本当の意味での長期的なインセンティブとしての機能は果たせないのではないかという疑問もあり、やはり、会社別年金制度や長期的なキャリアパスを明確にした昇進制度、長期雇用者への暖簾分け制度など、地道な制度の方が従業員の長期的な貢献を促すのではないかと岩井氏は述べています。

 さらに、岩井氏は、NPOの果たす役割がますます大きくなっていくのではないかと述べています。金融革命により相対的に誰でもおカネを調達しやすくなっている現在、NPO活動がますます重要になっていくのではないかということです。そもそも法人の起源は正に現在のNPOであったわけで、これは一種の先祖返りという見方もできるわけです。

 このように、会社の存在というのは今後ともなくなることはないと思われますが、それに加えて、今後は、会社で一定の経験を積んだ者が、その後自分で企業を起こしたりする選択肢をサラリーマンが持つことで、常に差異が生み出され続けていく状況となることが重要であると岩井氏は述べています。


 以上だらだらと長くなりましたが本書の概要です。(かつて備忘録的にまとめたものをベースにしているのですみません。)

 「差異性」というキーワードに基づき、資本主義を取り巻く状況の変化を踏まえつつ、今後の会社のあり方を極めて分かりやすく述べている部分は、この本の真骨頂といえるでしょう。

 現在の日本経済について見てみたとき、あらゆる産業分野において、以前に比べると利潤を生み出すことが格段に難しい状況が感じられます。特にデフレという状況下においては、モノの価格自体が下がっている中、労働賃金は下がっておらず、ますます利潤すなわち差異は生まれにくくなっているわけです。このため、以前と同じような投資を行ったとしても、そこから得られる利潤は小さくなっているわけです。今後、産業革命時のように生産性を画期的に高めるような技術が出現するまでは、おそらくこうした状況が続くものと思われます。

 こうした状況の中で、我が国は以前の経済成長を取り戻そうと必死になっているわけですが、まず我々に求められているのは、資本主義を巡る大きな変化、すなわちポスト産業資本主義への転換が現在進行していることをよく認識することだと思います。つまり、以前のようにある程度の投資さえすれば半自動的に収益を生み出すことができるような産業資本主義の状況はもはややってこないのだということです。

 このように従来の産業で差異を生み出すことが格段に難しくなっている状況下においても、おカネは依然として差異を求めて動き続けます。そこでおカネの向かう先は、必然的に株式市場などの金融分野になるわけです。投機的なおカネがますます金融市場で運用され、おカネがおカネを生み出していくということになるわけですが、それは、何ら実体を伴ったものではないため、結局はバブルとしてはじけてしまう、という繰り返しが行われることになるわけです。

 資本主義の下では、我々は何らかの差異を求め続け、おカネがうまく回るようにしなくてはなりません。しかしながら、もはや以前のように構造的に大きな差異が生まれることはありません。情報などのソフト面の差異はもちろん生み出され続けるものの、それは、決して構造的なものとはならないと思われます。

 そうすると、今後とも大きな差異を追求することによって、かつての栄光を追い求めることを社会全体の至上命題として取り組んでいくことは、非常にむなしい結果に終わるに違いありません。生産性を画期的に高める技術が出現しない限りは、わずかな差異しか得られない時代が続くことを覚悟した上で、社会のあり方を考えていくべきなのだと思います。

 そうした活動の1つのキーワードとして岩井氏が挙げているのがNPOです。もちろん現在存在するNPOもその実体は様々であり、NPOという主体であれば肯定されるものでは当然ありませんが、NPOという仕組みは、我々の活動の目的が利潤の追求のみではないことを示す1つの象徴的な存在たり得ると思います。たとえ会社形態であっても、利益の拡大以外の様々な社会的価値を追求するというNPO的な発想で従事することが重要なのだと思います。

 本書は、今日の資本主義が直面している状況を端的に分かりやすく説明しており、ポスト産業資本主義の状況に置かれている我々に今何が求められているのかを認識させてくれる大変貴重なすばらしい1冊です。

 今読んでも全く古さを感じさせない本ですので、お読みでない方は是非お読みください。