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佐藤優「自壊する帝国」

自壊する帝国

自壊する帝国

 この本は、著者が対ソ連外交に携わった体験が綴られているものですが、単なる著者の経験談にとどまることなく、ソ連が崩壊に至るまでの政治的な分析をほどこした一流の学術書となっているところに特色があるといえます。著者は、おそらく昨今の日本外交にあっては希有な諜報活動を展開したわけですが、いかにしてソ連の中枢に食い込んでいき、重要な情報が手もとに入ってくるような関係を築いたかが、鮮明な記憶と共に綴られており、我が国の対ソ連外交の一時代を眺める上でも貴重な資料といえるのではないかと思います。

 著者はもともとチェコの神学に関心を抱き、チェコ語を学べると期待して外務省に入省したとのこと。ところが、実際はロシア語の研修を命じられ、英国陸軍語学学校に通うことになります。

 著者のすごいところは、些細なことから人脈を築いていくところです。イギリス時代にも、チェコ神学の本を古本屋で漁っていたことが縁で、チェコ思想史に詳しい人物に出会ったりしています。

 それから、著者はモスクワに赴任し、そこで、サーシャと呼ばれる若者と運命的な出会いを果たします。サーシャは、著者が参加した演習で反体制の演説を行い、それに興味を抱いた著者と知り合いになります。それ以後、著者はサーシャを通じて、ソ連中枢の人物の知己を得ることになります。

 1991年1月にリトアニアの首都ビリニュスで独立派とソ連軍が衝突した際、著者は、最高会議建物に立てこもる独立派に対しソ連軍が強行突入する意思のないというメッセージをリトアニア共産党から預かり、それを独立派の伝えるというメッセンジャーの役割を果たしています。この行動によって独立運動が萎縮せずに済んだわけで、著者は後に独立したリトアニア政府から叙勲を受けたとのことです。

 また、1991年8月に発生したゴルバチョフに対するクーデターに際しては、ロシア共産党第二書記のイリインからいち早くゴルバチョフが生存しているという情報を聞き出したりもしています。

 本書を読むと、著者の諜報活動のイロハがよく分かります。ゴルバチョフの反アルコール・キャンペーンによって人々がウォッカを入手することが困難になったことから、著者は外交官の特権を利用してウォッカを調達し、それを使って関係者の気を惹きます。また、ポルノ関係に対する規制が厳しいことから、日本の生命保険会社から名刺大の水着カレンダーを渡したりもしていたとのこと。さらに、クーデター時には、電話の盗聴を避けるために、情報提供を依頼している相手が公衆電話からかけられるよう大量のコインを渡したりもしていたとのこと。この他にも、情報提供者との飲食代は相当額を費やしていたことも窺えます。

 しかしながら、著者がソ連の中枢に食い込むことができたのは、こうしたテクニック的な手法のおかげだけではもちろんありません。より重要な点は、著者が学生時代から学んできたチェコ神学に対する関心を通じて得たロシアや東欧諸国情勢についての深い造詣という武器があったことによって、ロシアにおける思想についてより深い洞察を行うことができ、また、ロシアの思想家たちと話を合わせることができたという事実でしょう。


 本書で、印象に残った箇所をいくつか挙げると、まずサーシャが著者に語った次の言葉です。

「…この国は異常な帝国なんだよ。帝国なんだけど宗主国(メトロポリヤ)がない」
「ロシア人こそがこの国でいちばん虐げられているということだ」(p95)

 つまり、ロシア人が少数民族を抑圧していたという構図がソ連については成り立たないということです。ソ連共産党支配には根源的な脆さがあったということがいえるわけです。

 そして、エリツィン政権の国務長官を務めたブルブリス氏の言葉です。

「自壊だよ。ソ連帝国は自壊したんだ。一九九一年八月の非常事態国家委員会によるクーデター未遂事件は、政治的チェルノブイリ原発事故)だ。ソ連という帝国の最中心部、ソ連共産党中央委員会という原子炉が炉心融解を起こし、爆発してしまったということさ。」(p374)

 こういう相手の言葉を一つ一つ脳裏に刻み込みながら諜報活動を展開していた著者の能力には、正直脱帽せざるを得ません。

 著者は、保釈されて以降、旺盛な文筆活動を展開されていますが、その背景が大変よく分かりました。

 「国策捜査」という言葉を定着させた『国家の罠

国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて

国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて

も大変面白い作品ですが、私はこちらの作品の方が面白かったです。