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「嵐を呼ぶ男」★★★★

嵐を呼ぶ男 [DVD]

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 1958年の正月映画として大ヒットし、石原裕次郎を一躍大スターに仕立て上げるとともに、日活の再建にも大きく貢献した映画です。

 国分正一(石原裕次郎)は、流しのギターで暴れん坊として名を轟かせていた。ジャズ・バンドのマネージャーを務めていた美弥子(北島三枝)は、ドラムを担っていたチャーリー桜田と恋仲にあったが、美弥子に恋心を抱いていた音楽評論家の左京は、チャーリー桜田を美弥子から引き離すために、チャーリー桜田をそそのかしてライバルのプロモーターに移らせた。そんなとき、美弥子は国分正一に目を付け、ドラマーの穴を埋める。

 美弥子は正一を一流のドラマーに育て上げるため、住み込みでドラムの特訓をさせ、正一は腕を上げていく。そんなとき、美弥子に近づきたい左京は、正一を持ち上げる評論をする代わりに、美弥子と左京の仲を正一が取り持つという取引契約を交わす。

 左京は、国分正一とチャーリー桜田のドラム対決を企画する。しかし、正一は、対決の前日に、チャーリー桜田の仲間から襲われ、右手を負傷してしまう。対決の当日、正一は途中から負傷した右手を動かせなくなってしまう。そんなとき、正一は、右手でマイクを握りしめ、左手でドラムを叩きながら、あの有名な「おいらはドラマー♪、やくざなドラマー♪」と唄うのである。正一は、唄うドラマーとして一躍人気を博し、左京も正一を持ち上げ、正一はついにチャーリー桜田の人気を超えてNo1の座を射止める。

 しかし、ここで問題が生じる。美弥子と正一が恋仲になってしまったことである。左京は約束が違うといって正一に抗議する。さらに問題を複雑にしたのは、正一の弟英二のことだった。英二は正一の活躍に感化されて作曲の道に進もうとしていたが、2人の母親は、英二には会社員や銀行員といった道に進んでもらいたいと考えていたため、英二を音楽の道に引き込んでいる正一を快く思っておらず、正一の活躍を苦々しく見ていた。

 弟英二は、ちょうど作曲家として大舞台でジャズ・オーケストラを指揮するチャンスをつかみかけていたところであったため、正一は左京が弟英二の音楽活動を妨害することをおそれ、美弥子の下を離れる。失意から泥酔の日々を送っていたが、偶々泥酔しているところをライバルのプロモーターのドンの女メリーに拾われ、メリーの家にいたことをとがめられ、ライバルのプロモーターやチャーリー桜田、左京らから暴行を受け、右手を粉砕されてしまう。

 弟英二がオーケストラを指揮する当日、正一は姿を見せなかった。そして、母親は、正一が母親から冷たくされていたことに傷ついており、弟英二を守るために大けがを負ったという事実を知り、正一に対する見方を大きく変える。行きつけのバーで弟英二の演奏をラジオで聞いていた正一の下に、母親や美弥子は駆けつけた・・・。

 この映画を語る上で、ここでもマイク・モラスキーの『戦後日本のジャズ文化』を参照したいと思うのですが、モラスキー氏は、戦後ジャズ文化とジャズを考える上で、黒澤監督の『酔いどれ天使』と本作『嵐を呼ぶ男』の2つの作品は見逃せないと述べています。

戦後日本のジャズ文化―映画・文学・アングラ

戦後日本のジャズ文化―映画・文学・アングラ

 モラスキー氏は、この映画を正一と母親の「和解物語」だとして、フロイト的な解釈を試みたりしており、それはそれでユニークな解釈だと思うのですが、モラスキー氏の着眼点でもっともなるほどと思ったのは、

「『嵐を呼ぶ男』での「大衆音楽としてのジャズ」描写においてとくに重要なのは、スウィングに基づくジャズ・スタイルや正一の熱烈なドラム演奏ではなく、むしろ正一が即興で歌い出す「俺らはドラマー」という日本語の歌である。ジャズは基本的には歌手のない器楽演奏として発展してきた。ところが、歌手がいることによって、それほどジャズ好きでない聴衆の間でもジャズの人気が高まることは、各時代において立証されてきた。」(p83)

と述べておられる点です。

 確かに、日本社会にジャズが浸透していく過程において、日本語の歌詞が重要な要素となっており、それが日本社会へのジャズ浸透に大きく貢献したわけです。ただ、モラスキー氏も指摘するように、いったんジャズが根付いた60年代以降は、歌う側も聞く側もジャズの本質論問題を非常に意識するようになり、逆にほとんど英語のみとなってしまったという事実は極めて面白い現象といえます。

 私は、この映画はやはり、国分正一とチャーリー桜田のドラム対決の場面が最高に好きです。ジャズはもともと即興演奏が持ち味であり、同じ曲でも、そのときそのときのライブ演奏によって、全く違う曲に仕上がっていくわけです。右手を負傷していた正一が急遽アドリブの唄を歌うことで形勢を逆転したという展開は、即興を重視するジャズだからこそあり得たわけで、他のジャンルの音楽にないジャズの醍醐味が存分に出ていたと思います。

 このように、本作品をジャズ映画として見ると、その良さが一層引き立ってくるように思います。