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エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」

自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版

 近代人にとっての自由とは何かという問題意識を追求したあまりに有名な古典ですが、原著は1941年に刊行され、日本でも1951年に初版が出されて以来百を超えて版を重ねているものです。政治の世界においてポピュリズムの問題がしばしば取り上げられる今日においても、全く新鮮さを失っていません。

 本書は、個人について論じたフロイトの心理学を社会心理についても応用したものです。

 中世においては、近代社会における自由は存在しなかったものの、その反面、人々は孤独ではなく、孤立していませんでした。中世の世界には「第一次的絆」が存在し、人々に安定感や帰属感を与えていたからです。

 それが、ルネッサンスの時代になり資本主義が発生すると、人々は「第一次的絆」から解放されます。他方、資本主義の勃興によって、人々は無力感にうちひしがれるようになります。宗教改革は、そうした無力感にうちひしがれた個人を神の前に服従させることになります。

 近代は、こうした中世後期の傾向をより一層推し進めることになります。産業組織は個人を発展させた反面、個人をより一層孤立させ、無力なものとします。そして、資本主義の発展は、資本の蓄積という自分以外の目的に対して自己の生活を従属させます。

 こういう状況の中で、人々の逃避が起こります。その逃避の方法の第一は、「権威」という「第二次的絆」に求めるといういわば「マゾヒズム的努力」です。それは、自由の重荷から逃れることを意味するものです。第二の逃避の方法は、個人が自分自身であることをやめ、文化的な鋳型によって与えられるパーソナリティを完全に受け容れるやり方です。つまり、個人がいわば「自動機械」となることを意味します。

 こういう状況の中で、ナチズムという全体主義が、自由であるはずの人々から求められる形で興ってきたというわけです。

 つまり、人々が求めてやまないはずの個人の自由というのは、それを推し進めれば推し進めるほど、人々は逆に自由から逃れたいと思うようになる、という極めて二律背反的なものだというのが、フロムの主張であると言えます。

 これはファシズムが台頭した一部の社会について当てはまるというものではなく、あらゆる社会に通用する問題だとフロムは捉えています。

「しかしファッシズムの脅威を国の内外を問わず真剣にとりあげても、もしわれわれが、われわれ自身の社会においても、個人の無意味と無力さという、どこでもファッシズム台頭の温床となるような現象に直面していることをみのがすならば、これほど大きな誤謬、重大な危険はない。」(p266)

 考えてみれば、今日の日本社会においても、構造改革の嵐の中、様々なコミュニティや絆の破壊が進められています。企業社会においては、長期雇用制や系列が壊され、政治の世界でも派閥のような集団が否定されてきています。こうした中で、人々の「原子」化が進んでいるわけで、フロムの考えているファシズムの温床となる基盤はより整備が進んでいるようにも思えます。

 また、インターネットという「原子」をつなぐツールが発展しています。しかし、インターネットは、新たな絆を生み出す可能性を大いに秘めている反面、「原子」を急速なスピードであっという間に糾合させる力を持っており、むしろ、ファシズム的な状況を急速にもたらすことにもつながるおそれがあります。

 こうした状況を踏まえ、我々はいかにファシズム的な様相をもたらさないようにしていくかについて、常に頭の片隅で考えていかなければならないように思います。

 ちなみに、フロムは、問題解決のためのキーワードとして「愛」や生産的な「仕事」の中で自発性を築いていく道を提案しています。

「…他人や自然との原初的な一体性からぬけでるという意味で、人間が自由となればなるほど、そしてまたかれがますます「個人」となればなるほど、人間に残された道は、愛や生産的な仕事の自発性のなかで外界と結ばれるか、でなければ、自由や個人的自我の統一性を破壊するような絆によって一種の安定感を求めるか、どちらかだということである。」(p29)

 ・・・抜本的な解決策を考えるのはなかなか難しい問題です。

P.S.ところで、昨今の近代経済学では、経済合理的な行動主体を前提としたモデルが組み立てられ、それを様々な政策に反映しようという大胆な試みがなされてきているわけですが、こういうフロムの深遠な問題意識に触れると、合理的な人間って一体何なんだろうと考えざるを得ません。