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安倍総理辞意表明

 最後は、もはや正常な判断能力を失していた感じを受けます。

 今回の安倍総理の辞意表明は、国民、マスコミから相当に酷評されているので、今更重ねて批判をするのは気が引けるのですが、今回の安倍政権の誕生から崩壊という一連のプロセスは、日本の総理決定のシステムを考える上で大きな教訓を残したと思いますので、あえてこの問題を取り上げてみたいと思います。

 社会人として一定の責任を負っている人であれば誰しもが感じるように、今回の辞任は明らかに社会常識を逸脱するタイミングであり、しかも、野党の党首が会ってくれないからという、誰しもが首をかしげざるを得ない理由を前面に掲げているわけで、今まで安倍氏に比較的好意的だった保守勢力にの人たちさえも、今回の辞任については擁護しきれないというのが正直なところでしょう。

 一時期、国民の絶大な人気を博した安倍総理の一体どこに問題があったのか。私が思うに、安倍総理の資質において何と言っても致命的な欠陥は「人を見る目のなさ」だったように思います。

 総理というのは、国という巨大な組織を動かすわけですから、当然、信頼できる人間を適材適所に配置して大幅に責任を委ねていかなければ、組織は回っていきません。それは、自分と気が合う人間を配置するということと大きく異なることは当然であって、個人的には多少そりが合わない人間であっても力のある人であればうまく活用し配置することで、組織全体の人心の掌握を図っていくことは、人事の要諦といえるでしょう。したがって、総理という職は、人を見る目がなければ絶対に務まらないといえます。

 ところが、安倍総理はまず、最初の人事において、「お友達」と「功労者」が数多く占める内閣を作ってしまいます。しかも、お友達の中でもとりわけ人望のない人物を官邸の要職に配置してしまいました。ここで、安倍氏の人を見る目のなさが早くも露呈してしまったわけです。このため、安倍政権自民党との調整に苦労することとなってしまいます。

 私は、かつて安倍内閣が組閣された際、次のような感想を述べたことがあります。

 正直、安倍総理は人事があまりお上手ではないのではないか、そんな印象を多くの人々は持ったのではないでしょうか?適材適所の実力重視の人選を貫いたとも見受けられず、また、一部派閥の冷遇を考えれば党内の結束を図るための人事とも感じられません。顔ぶれを見渡しても、昔からの仲間か安倍総理誕生に尽力した人たちばかりです。塩崎官房長官が「それぞれの分野で個性的な貢献をしてきた人ばかり」と評しましたが、それは全く当たっていないわけでもないものの、「この人がまさかこんなポストに?」という驚愕の人選もちらほら見られます。振り返ってみると、小泉前総理がいかに人事の天才だったかがよく分かります。

 中でも心配なのは、官邸の人事です。総理、官房長官ともに若すぎるという点が最大のネックとなりかねないでしょう。飯島秘書官のような「重し」もありませんし、政治力のある人物も見当たりません。本当に取り巻きだけで官邸を固めてしまったという印象です。官房副長官(政務)や首相補佐官として登用された中には、安倍氏と同世代の側近たちが多く含まれています。朝鮮日報の表現を借りれば「日本版386世代」で固められているといった感じでしょうか。
 役人のポストである官房副長官(事務)には、大昔に役人を退いた方が就くようですが、総理官邸が各省庁への指導力を発揮できるかどうかは、この方の手腕にかかっているといえるでしょう。

 安倍総理は、官邸機能強化を打ち出しており、これから官邸の様々なチームに、外部の有識者が多く登用されていくのだと思いますが、私が気になるのは、安倍総理の人脈の極端な「偏り」です。つまり、安倍総理の人脈は、保守派の論壇を占める人たちに極度に偏っていることです。
 私は個人的にこうした保守派の人たちの見解に同調できない部分がないわけではありませんし、国家を強く意識する姿勢に対してはむしろ共感する部分も多々あるわけですが、ただ、安倍総理の言っていることがあまりにもこうした人たちの言っていることと近似している点が気になります。安倍総理は保守派の人たちの主張を果たして自分の中で消化し、その上で自らの思想信条を形成されているのだろうか、という疑問を抱かざるを得ません。

 こうした不安や疑問に対する答えは、これからの国会論戦において徐々に明らかとなっていくのでしょう。場数を踏んでいくうちに、政権運営のバランスもとれてくるかもしれません。大統領府を386世代で固め、政権運営が行き詰まりつつあるお隣の韓国の二の舞を踏まないことを願うばかりです。

 当時のこうした認識は大体当たっていたように思いますし、懸念していたことが正に起こってしまったという感じです。しかも、386世代で固められた韓国よりも先に政権は崩壊してしまいました。

 さて、安倍氏の人を見る目のなさとも関連するのですが、どうも安倍氏には、自分と考えの異なる人の話に耳を傾けるという素養が欠如していたように見受けられます。自分と考えが違う人とはそもそも付き合いたくないし、自分の周りには置いておきたくない、という傾向が見られたように思います。

 例えば、対アジア外交政策が基本的に異なる谷垣氏の派閥を徹底的に排除したり、安保法制懇のメンバーを自分と集団的自衛権に関して意見を全く同じくする人物だけで固めたりしたのが、その典型例でしょう。

 それで組織が回るのであれば問題ありませんが、安倍氏の政権基盤は自民党であるわけですから、自民党の中の自分とは意見の異なる人たちも取り込んでいかなければならないことは言うまでもありません。周りがイエスマンばかりですから、いざ問題が噴出したときでも、総理に対して身を挺して異を唱えたり進言したりする人物がいなかったというわけです。

 年金問題の対応も、もっと的確な対処方針を考えられる重鎮が周囲にいれば対応は違っていたことでしょう。年金の失点を回復するために、議会制民主主義を半ば踏みにじるような強行採決を繰り返して選挙前に得点を稼ごうとしたことが、今、参議院与野党が逆転した状況の中、自分の身にそのまま跳ね返ってきてしまっていると言えるのではないでしょうか。これも、結局は、人を見る目のなさから導かれた1つの帰結といえるでしょう。

 もう1つ大きな問題点は、安倍総理の人脈の極端な偏りです。これも人を見る目のなさから来るものといえます。安倍総理の思想の原点が祖父の岸信介にあることは周知の事実ですが、安倍ブレーンと呼ばれる人たち(安保法制懇のメンバーをイメージすればよいでしょう。)は、固い信念の下で国民の反対を押し切ってまでも日米安保条約の改定を実現した岸信介の思想を賞讃する人たちが数多く含まれているという点に特色があります。安倍氏としても、おじいさんを褒めてくれることに悪い気がするわけがありません。

 ただ問題は、こうした人々の多くが、日米同盟を極度に重視する保守勢力に偏っていた点です。とりわけ、この勢力は、米国との共同歩調を取ることを妨げる「集団的自衛権の禁止」に対して執拗に固執していました。安倍氏も早くからその思想的影響を受け、憲法改正憲法解釈の変更に重大な関心を示すようになり、安倍氏が自らの政権で最も実現を推し進める事項へと持ち上がっていくわけです。

 しかし、こうした憲法改正憲法解釈の変更という問題は、安倍ブレーンの面々にとっては極めて重大なマターであったとしても、多くの国民にとっては関心外か、あるいはそもそもそうした見直しに慎重な声が強かったわけです。それが、空気が読めない(KY)という安倍氏に対する評価につながっていってしまったといえます。こういった勢力だけでなく、もっと幅広い人脈を持っていれば、安倍氏がここまで偏った思想に傾倒し続けることはなく、幅広い国民の声を政策に反映させることができたのではないかと思います。

 このように、安倍政権が早期に瓦解した最大の要因は、私は「人を見る目のなさ」だと考えています。このことが、安倍氏を精神的に追いつめ、誰が見てもタイミングを大きく外した辞任の決断へとつながっていってしまったということではないでしょうか。

 今後の日本政治の課題として考えるべき点は、なぜこういう総理が国民の圧倒的支持の下に誕生してしまったのか、ということでしょう。ここにポピュリズムの恐ろしさが露呈していように感じます。安倍氏は、北朝鮮との交渉での毅然とした態度が偶々世間の注目を浴びることになり、一気に人気が爆発したわけですが、確かにその時の態度は立派だったとしても、安倍氏のそれ以外の素養については国民に真実が伝わらないまま、安倍氏が総理に就任してしまったわけです。

 小選挙区制の下では、総理の権限は極めて強く、また、総理の国民的人気が自らの選挙の当落に直結します。だから、自民党の総裁選に当たっては、多くの議員や派閥が、勝ち馬に乗ろうと様々な画策を行い、そして選挙の顔として使えそうな候補者が現れると、その人物の総理としての素養などはそっちのけで、皆が総理に担ぎ上げてしまうという傾向が強まっているように見受けられます。

 これは、見方によっては、国民の声が総裁選により反映する形となっているともいえるかもしれませんが、逆に負の側面も出てきています。従来の派閥均衡システムの中では、国民と遠いところで談合によって総理が決まっていたという批判があった反面、国会議員の中でそれなりの信頼を勝ち得た人物が派閥の長となり、様々な要職を歴任して実績が積み重なった後に、ようやく総理候補となるシステムが構築されていたといえるでしょう。ですから、安倍氏のような、政治家としての素養が決定的に欠けた人物が総理になる確率は少なかったといえます。

 私は、国民に見えやすい形で自民党の総裁選を実施して総理が決まっていく方式が悪いとは決して思いませんが、かといって派閥均衡的な総理選出のシステムが一概に悪かったという捉え方は正確ではないと思います。

 これから自民党の総裁選が盛り上がっていこうとしていますが、本命と言われる福田氏にしても、国民に福田氏の思想がどれだけよく伝わっているかは疑問です。マスメディアはそれぞれの候補者についてより一層慎重に取り上げていく必要があると思いますし、国民もイメージだけでなくその政治思想も含めて総裁選を見守っていく必要があるように思います。