- 作者: 相倉久人
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2007/02/16
- メディア: 新書
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素人がジャズの世界を覗いて見るときに一番最初にとまどうのは、ジャズの定義でしょう。ジャズと一言でいっても演奏者によってその外観は多様であり、これが同じジャズか!と思えるようなものも多々見られるからです。この点について、相倉氏は次のように述べています。
「…歴史をさかのぼっていって、いつかどこかで創成期のジャズ、一〇〇年まえのニューオリンズ・スタイルにたどりつけば、それは「ジャズ」なのです。つまり、ジャズの定義はそうした歴史とのからみでしか成立しないということです。」(本書p13)
なるほど〜と思いました。
ジャズは19世紀の終わりから20世紀頭へかけて、ニューオリンズなどアメリカ南部の都市を舞台に、黒人たちによって徐々に形が整えられてきたもののようです。かつて奴隷として連れてこられてきた黒人たちは、大きなプランテーションで労働させられていたわけですが、夜の行動は比較的自由だったようで、主人たちの住む母屋に聞こえないように、ちょっと離れた森の奥に出かけていってドンチャン騒ぎをやったりしていたようで、そうした奴隷居住区共同体の暮らしを通して、アメリカ黒人独自の新しい音楽言語が芽生えていったそうです。
19世紀になり奴隷制のタガが緩むと、奴隷たちは南部の都市に集まりだします。そして、南北戦争(1861〜1865)が北軍の勝利に終わると、ニューオリンズの街には仕事を失った奴隷たちが集まり、質屋のウィンドウには、出番のなくなった元南軍の軍楽隊の楽器が大量に並ぶようになります。こうして、黒人たちは南軍払い下げの洋楽器を手にして、黒人文化と洋楽器との出会いが実現するわけです。これがジャズの原型なのだそうです。
その後ジャズは、ミシシッピ川を上下する外輪船などを通じてニューオリンズからシカゴへと広がっていきます。そして、ニューオリンズでは黒人文化だったジャズは、次第に白人社会にも浸透していきます。
やがて禁酒法の時代になると、ジャズは暗黒街とのつながりを持ち始めます。飲んで踊れる場所でないとジャズは仕事にならないからです。他方、ニューヨークでのもぐり酒場はもっと闇の奥深くだったため、ひたすら踊りに明け暮れる<ジャズ・エイジ>と呼ばれる現象が見られます。
やがて禁酒法が撤廃されると、<スウィング時代>の幕開けです。NBCのラジオ番組「レッツ・ダンス」がベニー・グッドマン・オーケストラ演奏のテーマ曲に乗って全米向けに放送を開始します。<ジャズ>という語の響きが裏社会とのつながりなど不適切なイメージをもっていたために<スウィング>という言葉が使われたもので、この時代においては<ジャズ>と<スウィング>は同義だったようですが、ファン層が白人中産家庭にまで広がりを見せ、ポップス寄りの作品や演奏が目立つようになったとのことです。
他方、カンザス・シティでは、やりたい者がやりたいように集まってやりたい音楽をやりたいように演奏して盛り上がるというカンザス・シティ流のやり方が行われたようです。飛び入り自由、譜面もなし、何とも自由な雰囲気のセッションです。そうした代表が、カウント・ベイシーのオーケストラでした。
当時、時代はスウィング真っ盛りでしたが、決まり切った演奏には疲れが見え始めており、デューク・エリントンは「ジャズは音楽だが、スウィングはビジネスだ」と述べており、カンザス・シティ流のやり方は新鮮に受けとめられたわけです。
それから、ミントンでも飛び入り自由の開放的なステージが繰り広げられ、<ビ・バップ>と呼ばれる新世代のジャズが誕生します。その代表が、チャーリー・パーカーです。
さらに、こうした動きに半歩遅れて登場するのがマイルス・デイビスの<クール・ジャズ>です。1940年代後半のことです。
その後、1950年代には、ロサンゼルス近辺を中心とする白人中心の<ウェストコースト・ジャズ>と、東海岸の黒人中心の<ハード・バップ>の勢いが上昇します。
1960年代は、<フリー・ジャズ>です。マイルス・デイビスは<モード奏法>により、バップ以降の音楽性の高まりや、派手はアドリブの競い合いによって複雑化したコード進行の束縛をのがれ、音色とメロディー・ラインの美しさによって活きる演奏に道を開きます。マイルスは、<モード奏法>のヒントを、当時つきあっていたダンサーのフランシス・テイラーに誘われて出かけた、ギニアのアフリカ・バレエ団の公演によって得たとのことです。つまり、それまでのジャズがコード理論というヨーロッパの考え方に振り回されていたことに待ったをかけるというねらいがあったわけです。
1960年代の<フリー・ジャズ>を牽引したのは、名盤『ブルートレイン』などが知られるジョン・コルトレーンです。コルトレーンの即興的なジャズは、60年代に圧倒的な影響力を持ちます。
ところが、こうした<フリー・ジャズ>の勢いにもだんだんと翳りがみられるようになり、集団即興演奏の極地であるアルバム『アセンション』は失敗作として不評を買います。その2年後の1967年にコルトレーンが肝臓癌でこの世を去ると、<フリー・ジャズ>は突然影が薄くなったといいます。相倉氏は、コルトレーンの死によって引導を渡されたのは、<フリー・ジャズ>ではなく、<モダン・ジャズ>であったと言います。
「ずばりいきましょう―。
コルトレーンの死によって引導を渡されたのはフリー・ジャズではなくて、じつはバップ以来二〇年つづいたモダン・ジャズの歴史そのものだったのではないでしょうか。
パーカーたちのバップ革命以来、モダン・ジャズの歴史は、基本的にアドリブの技法的な進化としてとらえられ、語られてきました。その進行をいっきに加速させたのがフリー・ジャズの登場であり、ついにそれが臨界に達したことを示す指標が『アセンション』ではないか、ということです。」(本書p157)
モダン・ジャズ神話の崩壊です。これ以降、ジャズにはメイン・ストリームがなくなり、多様化が進んでいきます。この事態は、モダン・ジャズ最大のカリスマとしてメイン・ストリームに位置していたマイルス・デイビスにも大きな衝撃を与えます。マイルスは、コルトレーンの音楽に対して最大級の評価と敬意を示しながらも、そのあまりに直線的・一方向的への暴走振りに早くから危惧を抱いていたとのことです。マイルスは、個の競い合いによってリズムをステップ・アップさせる代わりに、個の比重をできるだけ弱める方向に取り組みます。マイルスは、ジャズとR&B、ソウル、ロックなどの隣接分野の融合にも取り組みます。
「…ジャズなのかどうかという思惑を一切無視して「わが道を往く」マイルスにたいして、かつてのメンバーたちが入れ代わり立ち代わり、なんとかそれを<ジャズ>のほうへひきもどそうとしている絵柄が浮かんでくるのです。」(本書p170)
モダン・ジャズ神話崩壊後の、ジャズ界の手探りの状況と、そういう中でのマイルス・デイビスの必死の取組が伝わってきます。まさに「ジャズとはなにか」の再考が迫られているというわけです。
本書の内容を私なりに端折ってまとめると、以上のような感じなのですが、ジャズの系譜とともに、今日のジャズの置かれた位相が何となく分かったような気がします。
確かに、80年代、90年代以降今日までの間の音楽シーンについてだけ考えても、その時代のジャズを牽引する誰もが知っているような強力なミュージシャンは存在してこなかったような気がしており、ポップスやロックに圧倒的に押されていたような感じを受けます。それもモダン・ジャズ神話の崩壊と大きく関係していることなのでしょう。
ただ、ジャズのアイデンティティに立ち返って見ると、そもそも、ジャズは起源をたどっていくと100年前のニューオリンズのスタイルにたどりつくという点で共通しているだけであって、その中身を見てみると、あまりに多様な音楽が入り交じっているわけです。ですから、素人的に考えると、メイン・ストリームがない状況こそ、ジャズのアイデンティティにとっては好ましい状況と言えるのかもしれません。
混沌・多様性の中から、その時代を風靡するようなジャズ・ミュージシャンが誕生することは大いに考えられることで、今後のジャズ界に注目していきたいと思っています。
そのためにも、今後、ジャズについてもう少し見識を深めていきたいと思っている今日この頃です。