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毛利衛さんの経済学批判

 元宇宙飛行士のあの毛利衛さんが、9月4日付けの日経新聞の経済教室欄の「経済学を語る 異分野の視点」と題されたシリーズの中で、痛烈な経済学批判を繰り広げているのだから驚きです。

 毛利さんの論旨は、次のような感じです。

 例えば、天文学や物理学の世界でも、時を経るにつれて新しい現象が見つかり、新たな学問体系が組み立てられてきており、絶えず「大前提」を覆すことで学問の水準が高められてきた。ところが、経済学は、アダム・スミス以来、学問的な進化に乏しいと言わざるを得ないように見える。例えば、「個人は利潤を追求する」という中心概念、すなわち「合理的経済人」の家庭を金科玉条のごとく今でも堅持してはいないだとうかという疑念がぬぐえない。

 異分野からの大変痛烈な経済学批判です。

 毛利さんからしてみれば、特に基礎科学研究分野への投資が、経済効果の観点から重視されないことを身にしみて感じておられると思われ、その前提である近代経済学に対する不信感が募っていることは容易に推測できます。

 従来の経済学は、経済効率には異常な関心を示す一方、地球環境の保全などに対する関心は希薄であったわけです。毛利さんも指摘しているように、従来の経済学を推し進めていけば、我々の絶滅は間違いなく早まっていくことは明らかでしょう。

 したがって、毛利さんの次の言葉には説得力があります。

「経済学が最終的に社会の経済効率化を促進したり解釈したりするだけではなく、人類が生き延びる知恵として人間が造り出した学問であることへの原点に返らねばならない。」

 毛利さんのこの論考には、おそらく内容的に新しい視点が盛り込まれているというわけではないのですが、やはり物理応用学という自然科学の分野を生きている方から、近代経済学に対する堂々とした批判がなされることは、極めて頼もしい限りです。

 以前、東京大学佐藤俊樹教授が指摘されていたことでもあるのですが、経済学というのは「合理的個人」という極めて単純化した前提でモデルを組み立てているにもかかわらず、単純化していることを忘れてしまっているように感じるわけです。しかも、単純化したモデルの下であらゆる分野の政策を考え、それを実際に押しつけようとする強い動きがつい最近まで見られてきたわけです。

 こうした構造に違和感を感じる人たちも多くいたであろうにもかかわらず、そういう近代経済学のモデルに疑問を投げかけること自体が、「構造改革」という「善」の流れに反対する「抵抗勢力」であるかのように受け取られた時代がずいぶん続いてきたように思います。

 日本経済新聞という構造改革推進を社是とするような新聞にこういう論考が掲載されること自体、世の中少し変わってきたのかなぁ、という感じがします。