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格差か?貧困か?

 8月23日の毎日新聞夕刊に、北海道大学中島岳志准教授と日本女子大学の岩田正美教授の対談「格差? 貧困こそ問題だ」が掲載されていました。

 「格差社会」論は、一時期に比べればトーンダウンしたかのようにも見えますが、それでも依然として大きな社会テーマとなっています。この論議の背景には、一部の人々が濡れ手に粟のように莫大なお金を稼ぐ一方で、一部の人々は将来の展望が開けないままに低賃金の不安定な非正規雇用に置かれているという今日の社会の状況があるわけで、それが大きな問題を孕んでいること自体を真っ向から否定する人はあまりいないのではないかと思います。

 問題は、こうした現状をどのような言葉を用いて論ずるかということでしょう。この問題を「格差社会」と捉えることには、大きなデメリットがあります。それは、根本的な反論を招きやすいということです。

 例えば、かつての日本経団連会長であった奥田碩氏は、次のように述べています。

「みんな一斉に格差を言い始めたが、今の日本で凍死したり餓死したりする話はほとんど聞かない。統計的に見ても高齢化要因などが大きい。そもそも共産主義を選ばない限り格差ゼロはあり得ない。多少の格差があることはおかしくない」
「問題は成功者に嫉妬(しっと)し、引きずり降ろす力が日本社会に強いことだ。それでは経済全体が沈滞する。成功者を尊敬し、それを目標にして自分も頑張ろうという『称賛の経済学』に転換すれば、今以上に社会が活気づくだろう。」
(2006年4月7日付け日本経済新聞における奥田氏の発言)

日本経団連前会長の奥田碩トヨタ自動車相談役は23日、名古屋市で講演し、小泉政権下で進んだ経済格差拡大について「格差社会は社会の活性化につながる限り、むしろ望ましい」との持論を展開した。奥田氏は「金もうけこそ活力の源泉」とした上で、成功者を嫉妬せず称賛することが経済的繁栄に不可欠と指摘。「倫理や道徳に背く金もうけは許されない」と述べたが、経団連会長時代に、堀江貴文被告が率いていたライブドアの入会を認めたことについては言及しなかった。」(2006年8月24日付け毎日新聞

 こうした奥田氏の発言には当然釈然としないものが残るわけですが、他方で、奥田氏の言っていることを論理的に喝破できるかというと、なかなか難しいことも事実です。

 つまり、「格差」がいけないのだという主張を展開しようとすると、「格差はむしろあった方がよいのではないか」と反論され、そこで議論が止まってしまうというわけです。

 しかし、今日の問題を「貧困問題」として捉えれば、「貧困はむしろあった方がよい」という反論をする人はおそらく皆無でしょうから、議論の前提についてぐるぐる回る必要はなくなります。

 岩田氏と中島氏は次のように意見を交わしています。

岩田 格差と貧困には、もちろん関係があります。しかし、格差はそもそも「差がある」ことした意味しません。格差の中で何が問題かを見分けるべきで、貧困は言葉自体が「何とかしろ」という問題提起になるから、この言葉をはっきり使うべきだと思うんです。
中島 つまり、「格差はあって当然」と言われると、議論はストップする。けど、貧困は「なくすべき」との価値判断を含むから、むしろ議論を始められるというわけですね。

 このやりとりには思わず頷いてしまいました。

 それからこの対談で興味深かったのは、「貧困の質」が変わってきているという問題です。

中島 …では、現代の貧困の質についてうかがいます。ホームレスの人と話をすると、「かつての貧困な何らかの形で耐えられた」と言う。出稼ぎで苦しい生活をしても、家族のためのといったアイデンティティーの補償があった。しかし今のネットカフェ難民らは、その裏付けなしで貧困に陥っている。
岩田 戦後社会が想定してきた貧困は、普通に働き家族も友達もいるが、収入や資産が少ないというものでした。社会とのつながりを維持したまま、あるいはそれを維持するために貧しかった。いま注目されているのは、家族や社会とのつながり自体が壊れているか未形成なうえに貧しい、孤独な貧困です。

 かつての高度成長期の頃の貧困に比べて、今日の貧困には将来への展望が開けないところに決定的な違いがあるという漠然とした認識を、多くの人たちが持っているのではないかと思います。映画「ALWAYS 三丁目の夕日」が貧しいながらも希望を持って高度成長期を生きる人々を描いて多くの日本人の共感を呼んだのも、そうした認識と無縁ではないような気がします。

 そして、今日の社会では、そうした貧困に置かれた人々に対し、「自己責任」などと冷たい言葉が投げかけられます。この点について、岩田氏は次のような鋭い指摘をされています。

岩田 自己責任は、実は日本の高度経済成長を貫いた考え方です。勉強して就職して家族と持ち家を持ち、子供を作って労働の支えにするのはあなたの責任、という仕組みを日本の働く人々は心底引き受けたんですね。ホームレスの人たちも自己責任論の固まりみたいな人が多くて、ホームレスになったのは自分が悪いと信じ、それを恥じている。
 行政は「彼らは自立心が足りない」と判断して対策を立てますが、これはミスマッチなんです。自立的な価値を持ち過ぎたから貧困に陥った人たちに、「一生懸命自立しろ」と教育する。ホームレスの自立支援センターに行くと、みんな夢中になり、殺気立って仕事を探しています。就職したい人を助けるのは悪いことじゃないけど、それだけではダメです。

 確かに、我々の社会は、貧困に陥ったのは本人たちの努力不足だ、というような潜在的な意識を持っているような気がします。今の政権の「再チャレンジ」などという発想も、一見慈愛的なイメージを醸し出しているものの、実は、そうしたいわば「敗者」の人たちに「勝ちたければチャンスは与えてやるから勝手に頑張りな。」という冷たく言い放っているのに等しいという気がします。しかし、貧困の問題は、本人の自立心などで解決できるものでないばかりか、むしろ、自立心を大いに持っていた人こそが貧困に陥っているという現状も観察できるわけですから、何の解決にもならないというのは岩田氏の指摘するとおりです。

 やはり、こうした問題を解決するには、もう一度地域社会を再興して、地域のネットワークの中で貧困の解決を図っていくしかないのではないかと思います。しかし、それには、社会の在り方や進むべき方向について再度社会の構成員の間で議論し、合意を得ることが不可欠です。

 ある社会の中で相対的に収入や資産が少ない人たちが生じるのは仕方がなく、その意味で一定の差が生じることを否定するわけには当然いかないわけですが、そうした人たちを地域社会が受け入れて居場所を与えるという発想が必要なのではないかと思うわけです。そのためには、今まで当然と思っていた近代社会の在り方についても、根本に立ち返って考えていかなければならないわけです。

 最後に、ホームレスに関する岩田氏の言葉を以下に掲載しておきたいと思います。

岩田 地域が「きれい」になっても、ホームレスは他の場所に拡散するだけで、問題は解決しません。近代的な「きれいにする」やり方は破たんしているんですよ。結局、自分たちが排除する人たちを作り出すのは自分たちの社会だということに立ち返るしかない。貧困や排除の問題は近代社会の限界を示している。貧困問題は、そこから考え直すべき気がします。