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ヨゼフ・ピーパー「余暇と祝祭」

余暇と祝祭 (講談社学術文庫)

余暇と祝祭 (講談社学術文庫)

 この本は、講談社学術文庫に収められた百頁余りのものですが、労働を過大評価する現代社会に対する痛烈な批判を展開するものです。

 ピーパーがまず指摘するのは、労働や余暇について現代の私たちが下している評価が、古代や中世のものとは天と地ほどの違いがあるという点です。

現代社会では労働と(真の意味での)余暇のしめるべき位置がさかさまになっている」(p27)

のです。

 労働の概念が人間の存在そのものの全領域を占領している現代社会では、哲学的な教養についても「精神的労働」として労働の概念に侵されてしまっています。カントも「認識すること」、「哲学すること」を「労働」として捉えているわけですが、ピーパーによれば、「認識」という働きは「理性」と「知性」の共同作業であり、「理性」という労働的な働きも含まれているものの、それだけではなく、「知性」による単純な直観というのは労働とは無縁な働きであり、したがって、ピーパーは「哲学」を労働という言葉で表すことはできないとしています。

 ピーパーが述べている主張の中で、現代社会の我々の常識をもっとも根底から覆すものは、「怠惰」についての捉え方です。ピーパーは次のように述べています。

形而上学的、神学的立場からいえば、「怠惰」とは人間が自分の本来の存在と究極的に一致しないことを意味しま
す。」(p62)

 労働が絶対視される現代社会では、「余暇」は「怠惰」とみなされるわけですが、中世の人生観においては、

「せわしなく働くこと、「労働のための労働」をモットーに休みを知らず働くことが怠惰のしるしだ」(p61)

ということになるわけです。

 逆にいえば、「怠惰」とは「余暇の喪失」でもあるのです。

 ピーパーは、「余暇」を「労働」と対比しつつ、次のように説明します。

  • 「労働」は自分から働きかけて手に入れたものだけに価値を認める態度であるのに対し、「余暇」は「非・活動」「内面的なゆとり」「休息」「ゆだねること」「沈黙」の態度をあらわしている。
  • 「労働」は始めから終わりまで苦労と骨折りであるのに対し、「余暇」は苦労から解放されて祭りを祝う人の態度に象徴される。
  • 「余暇」は「労働」の概念に含まれている社会的機能、実益への奉仕という側面にするどく対立している。

 こうして見てくると、ピーパーの考える「余暇」の意味が浮かび上がってきたのではないかと思います。

 つまり、「余暇」とは、労働の合間に休憩したり、単に週末に労働を一休みするということを意味するのではなく、それは「一つの精神的態度」であり、「人間の在り方、精神の状態」であるわけです。

 それは、労働を絶対視する現代社会における我々の生き方の正に逆のベクトルを向いた活動といっても過言ではないでしょう。

 しかし、労働を絶対視する現代社会において、「余暇のための空間」はどのように保持・回復することは到底容易ではありません。ピーパーによれば、「余暇のための空間」とは、

「人間が、何物にもおびやかされることなく、真実に人間的に生きることのできる空間」(p77)

のことです。

 神学者でもあるピーパーはこの問いに対する回答として、「祝祭」を持ち出します。つまり、「礼拝に根ざす祝祭」こそが、余暇の基盤となるのだというわけです。

 この「余暇」の切り札として「祝祭」を挙げるピーパーの主張については、多くの方々が違和感を感じるかもしれませんが、これは神学者であるピーパーならではの解といえます。

 いずれにせよ、ピーパーの一貫した主張は、労働を絶対視する現代社会に対する批判です。近年においても、日本社会では、労働においていかに自己実現するか、といった問題提起が頻繁になされていますが、ピーパーに言わせれば、労働において自己実現するというのは正に現代社会にのみ通用する考え方ということになるのでしょう。

 現代社会において「余暇」が重要だといっても、虚しい響きを持ってしまうことも事実かもしれませんが、ただ、さはさりながら、現代社会が労働を過度に評価していることは事実であり、近年、それがより一層深刻化している感じもあります。そういう中で、ピーパーが半世紀以上前も提起した問題意識は、今日の社会においてこそ重要な意義を持ってくるのではないかと思います。

 余暇が論じられることが少なくなった今日、この本は「忘れられた名著」と言えるかもしれません。