読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる
映画、書評、ジャズなど

「格差」の基準とは?

労働

 私たちが格差社会を論じるに当たっては、暗黙のうちに大きな前提を設定しています。それは、人生の価値の中心を収入に置いてしまっているということです。だからこそ、収入の格差が広がれば「格差社会」が進んでいるという主張がなされるわけです。

 もちろん、収入の多寡によって購入することができる財やサービスの総体が変わってくるわけですから、収入が人生に与える影響の大きさは無視できず、「格差社会」の議論は極めて重要な議論であることは疑いありません。

 ただ、収入を中心に格差社会だけを論じることは、収入以外の人生の価値というものが過度に軽視され、あたかも人生の中心が収入だけで測れるかのような錯覚を植え付けてしまうというおそれはよく自覚しておく必要がありそうです。

 この点を考える上で、8月7日の毎日新聞の夕刊に、神戸女学院大学内田樹教授が「「格差社会」論の落とし穴」と題する論考を掲載されていましたが、興味深い内容なので御紹介したいと思います。

 内田教授は、次のように問題提起します。

「私たちの社会が「格差社会」であり、その格差が日々広がっているというのは価値中立的な事実なのだろうか。私は少し違うのではないかと思う。私たちの社会に実際に起きているのは「格差の拡大」というよりはむしろ「格差を量る物差しの一元化」ではないのか。」

「…もし所得差のことを「格差」と呼ぶということにすると、それは人間の「格」付けは所得差によって一義的に決定されるという判断に同意署名することになる。そのような手荒な判断に軽々に同意してよろしいのだろうか。」

 はっきりと自覚していなくても、格差を論じることが実は「物差しの一元化」に加担していることにつながっているかもしれないといった趣旨の指摘はハッとされられます。


 この内田教授の論考を読んでいて思い出したのは、だいぶ前に遡りますが、昨年3月4日の毎日新聞関西大学竹内洋教授が書かれていた「非エリート文化の兆し」と題する論考です。

 竹内教授によれば、戦前の社会は大格差社会であったが、努力によって立身出世できるという希望があり、しかも小さな上昇移動でも満足感は大きかった。そして、実際に立身出世できなくても「堅気」や「苦労人」という理想的人間像があった。これが大格差社会の中の庶民の「矜持」と「癒し」になったわけです。ところが、戦後は、高度成長で大衆の欲望が果てしなく解放されたことで、客観的格差が隠蔽されることで一億総中流社会が生まれたものの、戦前にあった庶民の自足的な誇り文化は失われ、「エリート文化もノン・エリート文化もなべてのっぺりしたサラリーマン文化に吸収されてしまった」というわけです。

 竹内教授の指摘するように、確かにこれまでの社会に格差がなかったわけではありません。しかし、これまでの社会はたとえ格差があったとしても、非エリートには非エリートなりの文化があり、貧しくてもそれを劣等感として感じなくするような装置が働いていたわけです。今日の社会は「格差社会」というよりも「格差感社会」であるという竹内教授の指摘には納得です。

 つまり、今日の社会の問題は、格差を劣等感として実感してしまう社会である点にあると言えるかもしれません。

 そこで、竹内教授は「格差への対処文化の存在」の必要性を唱えられています。そして、今日「勝ち組は勝ち組、わたしはわたしという自足的な新ノン・エリート文化が生まれつつあることに着目すべき」と述べられています。


 確かに、人生何をもって「勝ち」「負け」を判断すべきかは極めて難しい問題であり、もっといえば、そもそも人生において「勝ち」「負け」というレッテルを貼ること自体、不必要なことのような気がします。

 ものすごく極端な話、例えば、先進国に住んでいる我々日本人と未開の地域に住んでいる人々とを比較して、どっちが「勝ち」だ「負け」だということが無意味であることは明らかです。物質的な豊かさという尺度でみれば、先進国に住む我々の方が「勝ち」に決まっていますが、時間的なゆとりといった尺度でみれば、未開の人々の方がはるかに豊かな生活を送っているとさえいえるかもしれません。

 それは、1つの社会の中についてだけ見た場合であっても、同じことでしょう。

 「勝ち」「負け」を量る唯一の尺度というのは存在すべきではないということだと思います。

 ただし、だからといって、近年の格差論議が無意味であるということにはなりません。社会の中で生活していくためには、やはりある程度の金銭的な余裕がなければなりません。現代社会にあっては、金銭の価値が大きなウェイトを占めていることは間違いなく、1つの社会において収入の差が広がることはやはり大きな問題でしょう。

 それからもう1つ重要な点は、収入の格差が広がることによって、「貧困」がもたらされている可能性があるという点でしょう。近年、企業の景気は大変好調であるにもかかわらず、その利益が広く還元されていない状況にあります。それは、何と言っても、収入が著しく低く雇用も不安定な非正規雇用者が増大していることによって、利益の分配がうまく機能しなくなっていることに起因するものと言えるでしょう。企業の役員クラスはこれまでにない高収入を得ている一方で、多くの非正規雇用者は一向に収入が伸びず、日々暮らしていくのにも苦労し、家庭も持てないという状況にあるわけです。こうしたある意味「貧困」こそが大きな問題なのだと言えます。


 たしかに人間の価値を量る物差しが一元化することは大きな問題であるものの、かといって、あまりそのことを強調すれば、新自由主義を主張するサイドからすれば「じゃぁ、収入の格差があっても問題ないではないか」という論拠に使われてしまうおそれもあり、注意を要します。

 いずれにせよ、格差論議は、ただ収入の格差をなくせばよいという単純な議論だけではなく、人生の価値を考える上においては、収入などの金銭的側面以外の様々な物差しがあるのだということをよく踏まえた上で重層的に展開される必要があるということなのだと思います。