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「覇王別姫」とは、楚と漢の争いを背景にした物語です。楚の覇王(=項羽)は漢王の劉邦の率いる兵に遭遇すると、劉邦の兵は楚の歌を歌い続けた。それを聞いた楚の兵士たちは、祖国が敵の手に落ちたと思って浮き足立ち、王を見捨てて敗走を始める。項羽に残されたのは、虞姫(ぐき)と1頭の馬だけ。虞姫は剣を手に王のために最後の舞を舞って、その剣でのどを突き、王への貞節を全うした・・・。「四面楚歌」というのはこの話から出ているのですね。
さて、この映画のあらすじですが、幼くして京劇の養成所に入った小豆子と小石頭は、兄弟のように共に京劇の厳しい稽古に耐えてきた。女形を演じる小豆子はたまたまある高官の目に止まったことから、小石頭は段小(チャン・フォンイー)、そして小豆子は程蝶衣(レスリー・チャン)へと改名し、2人が演じる「覇王別姫」は一躍人気を博する。
その後、段小は遊郭の女の菊仙と結婚したことを機に、2人の間はぎくしゃくする。程蝶衣は段小に対して友情を超えた愛情を抱いていたのだった。
やがて日中戦争が始まり、日本兵が入り込んでくる。そして、戦争が終わって、国民党政権が台湾に逃亡した後に共産党政権下になると、京劇は時代に取り残されていく。過酷な稽古に耐えることを説いても、現代劇の若者たちはそれを理解しない。京劇は体制の移り変わりの中で、取り残されてしまった。蝶衣は、かつて日本兵の前で演じたことを理由に裁判にもかけられてしまう。
文化大革命の時代には、程蝶衣が助けてあげた弟子が手のひらを返して自分たちを陥れ、民衆の前で段小と程蝶衣は糾弾される。段小も共産党の悪口を言っていたとあらぬ疑惑をかけられ、尋問を受けます。民衆の激しい糾弾の中で、段小と程蝶衣も互いに裏切り合うことになります。
この映画の中では、特に、文化大革命について大変生々しく描かれているのが印象的です。実際、この時代には多くの無実の人々が反動主義者とみなされ、糾弾されます。文化大革命とは、かつての味方だった人々が突然裏切り者に代わっていく狂気の時代です。
この文化大革命の描写が、陳凱歌監督自身の実体験に相当程度裏打ちされたものであることは、疑いないでしょう。その体験は、陳凱歌が書いた『私の紅衛兵時代』の中で赤裸々につづられています。
- 作者: 陳凱歌,刈間文俊
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陳凱歌の父親はかつて国民党に入っていたことから、共産党から糾弾されています。文化大革命当時、学生の間には秘密組織の紅衛兵が成立し、毛沢東への忠誠を誓ってその思想を守る運動を展開していました。学校の担任の先生までもが、学生達につるし上げられ、糾弾されました。
共産党に捕らわれていた陳凱歌の父親は、ある日家に引き連れられてきます。陳凱歌も他の民衆とともに自分の父親に対して「打倒しろ!」というスローガンを叫びます。
「すべては、夢のようだった。赤い腕章を巻いた者が、私の名を叫ぶ。私は、大勢に見つめられながら、前へ出た。自分が何を喋ったのか、覚えてはいない。だが、そのとき父は私のほうをチラリと見た。私は父の肩を手で突いた。どれくらい力をこめたか、はっきりしないが、それほど強くはなかったろう。しかし、とにかく私は父を突き飛ばした。肩に手を置いた瞬間の感触は、まだ覚えている。父は避けようとしたが、途中でやめ、腰をさらに深く曲げただけだった。私を周りから包んだのは、快感で熱く火照った視線だった。私は逃げることもできず、ヒステリックに何かを叫んでいた。」(p91)
翌朝、父親は再び連行されていき、さらにひどいめに合わされます。数年後には、父親は陳凱歌が見分けられないほどの姿となって、掃除をしていた。
私は陳凱歌のこの本を読んだ時の衝撃を忘れることができません。
「文革とは、恐怖を前提にした愚かな大衆の運動だった。」(p109)
と陳凱歌は述べているように、文化大革命は、イデオロギーや思想とはかけ離れたあまりにも愚かな運動だったとしか言いようがありません。そうした愚かな運動に陳凱歌は手を貸してしまい、しかも自分の父親までをも糾弾してしまったわけです。このことが陳凱歌にどれだけのトラウマを残したかは容易に推測できるでしょう。
映画の最後、程蝶衣は剣で自ら命を絶ちます。中国社会の激しい変革の中で、もはや自分の存在価値を認識しながら生き続けていくことはできなかったのでしょう。
ちなみに、程蝶衣を演じたレスリー・チャン本人も数年前に若くして自殺しています。鬱病が原因で、一説には同性愛のもつれなどとも言われているようですが、何かこの映画が彼の生涯までをも暗示しているようでなりません。