- 作者: 今村仁司
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1998/10/20
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近代以前の人々もこんな労働をしていたのか?
この本は、近代の労働と近代以前の労働とを比較してその根本的な違いを明らかにし、こうした疑問に根本的に答えてくれます。
「文明の歴史のなかでひとつの断絶線が走ったとすら言えるほどに、近代の労働文明と近代以前の文明の間には深い溝がある。」(p2)
今村氏はまず、近代の労働と対極にある古代ギリシアの労働観とアルカイックな(太古的な)社会の労働観を取り上げます。
古代ギリシアでは、もちろん奴隷制の存在というのはあるのですが、労働は低いものとして見られていました。自由とは労働からの解放であり、職業労働というのは、余暇のない不自由な行為であると見られていたのです。
他方、アルカイックな社会については、ニューブリテン島のマエンゲの人々が例に挙げられています。我々はこういう言ってみれば未開の人たちの生活というのは、日々労働に追われ、息苦しいものであるかような偏見を持っていたりするのですが、実は、マエンゲの社会の労働経験について見てみると、食うための生産活動をもっぱら「美」の基準で評価することを日常的に当たり前にやっているのだと今村氏は指摘します。つまり、生活自体が美の基準で営まれていたわけです。
このように、古代ギリシアにしろ、アルカイックな社会にしろ、共通して言えることは、次のようなことになります。
「前記の二つの型に共通する事実は、労働が労働として突出していないこと、われわれが労働と呼ぶ生産活動は、何重にもヴェールに包まれていることである。厳密な意味では「労働」は存在しない。「労働」は、あるところでは宗教的な祈りとひとつであり、他のところでは倫理や道徳とひとつであり、または芸術作品をつくる美的活動ですらある。生業にさかれる時間は少なく、余暇が圧倒的である。」(p25)
こうした労働観が大きく転倒するのが、近代に入ってからです。それまでヴェールにくるまれていた「労働」がむき出しの「労働」に変わっていくのだと言えるでしょう。
資本主義発生期の中で、労働は人間の管理と教育の中で中心的役割を果たすようになっていきます。そして、特に貧民に対しては、禁欲の倫理が押しつけられ、時間表に基づく労働のリズムが肉体に刻み込まれます。そして、本来喜びをもたらすはずもない強制労働でさえ「労働の喜び」があると主張されるようになります。
この辺の過程は、フーコーが『監獄の誕生』の中で論じた主眼点でもありますが、要するに、こうした労働観は、監獄の中での論理として生まれてきたものでもあったわけです。今村氏も引用されているフーコーの記述を以下に引用しておきます。
「労働と食事とが代わるがわる続いて、被拘禁者は夕暮の祈りまでそれらに付きまとわれる。それで、日々新たな眠りが被拘禁者に、想像力の錯乱に伴う幻によって全然かき乱されない心地よい休息を与える。こうして六日間の平日がすぎる。それに続くのは、もっぱら祈りと教育と有益な瞑想にささげられる一日である。こういうふうに週が、月が、年がつぎつぎ続き、交代するようになる。こうして、入獄当初は移り気な人間、つまり自分のむら気ばかりを頼りにしつつ自分の生活を各種の悪で破壊しようと努める人間だった囚人が、最初は全く表面的な、だがやがては第二の天性に変わる習慣の力によって、次第に労働およびそれから生じる喜びにすっかり親しみを覚える。」(ミシェル・フーコー 田村訳『監獄の誕生』p238−239)
- 作者: ミシェル・フーコー,Michel Foucault,田村俶
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こうして、近代社会においては、余暇の格下げと労働の格上げがなされ、
「多忙と勤勉労働は全面的に勝利した」(p164)
のです。
しかし、今村氏は次のように指摘します。
「無為と自由の時間のなかで、人ははじめて、自由な人格として、自立的な人間として、「共同の事物」について考え、自分の意見を他人の視線にされし、他人たちの評価の対象としてもりだし、共に語り、検討し、討議することができる。」(p186)
「いずれにしても、必然的労働時間を可能な限り縮小することは、自由な時間、無為のなかでの共同の事物についての思考ができるための絶対的条件である。」(p187−188)
今村氏はここで、他者による承認行為が、マエンゲのような社会においては私的と公的に分裂せずに、公的承認によって統一されているのに対して、近代社会では、公的と私的に分裂していることを取り上げ、いかにマエンゲ社会のような形での承認の形を取り戻すかについて論じます。その答えが、労働時間を縮小し、自由な時間を創出することであり、それによって、我々は再び私的な承認欲望から解放され、公的な承認欲望を取り戻すことができ、よく生き、正しく生きることができるのだというのが、今村氏の立論です。
近年、ワークライフバランスなどが声高に叫ばれていますが、こうした議論の中で、近代社会の「労働」の本質にまで遡って検討されることはあまりありません。しかし、人類史がたどってきた労働観の変遷を振り返ってみれば、そもそも今日の社会における「労働」とは何なのか、そして、我々の生活の中で「労働」をどのように再定義すべきなのか、という根本的な議論をしてみることも無意味ではないように思います。
生活するために労働することは当たり前ではないかと言われれば、それについて反論することは難しいのですが、しかし、我々の社会はどれくらいの生活レベルを目指すべきで、そのためには最低限どれだけの労働をすべきか、というのは、1人1人の実践のレベルを超えた社会全体の在り方の問題です。
ワークライフバランスの議論は、そもそも「労働」とは何かという深遠な問題にまで遡ることが必要不可欠だと思います。
なお、今村仁司教授は、本年5月にお亡くなりになられました。今村教授の残された数々の名著や翻訳は、日本の哲学界においてはなくてはならないものばかりで、若くして亡くなられたことは残念でなりません。ご冥福をお祈りします。