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長谷部恭男「憲法と平和を問いなおす」

憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)

憲法と平和を問いなおす (ちくま新書)

 この本は、東京大学の長谷部教授が書かれたもので、「立憲主義」の観点からとりわけ9条の意義を分かりやすく説いたものです。以前、コミュニタリアニズムに関する本を取り上げた際に、長谷部教授の説明との対比について簡単に触れたところですが、この点をもう少し掘り下げてみたいと思います。

 本書の問題意識は、まえがきに書かれている次の文章から明らかです。

「筆者の見るところ、九条をはじめとする憲法改正論議には欠けている視点がある。立憲主義…という視点である。そもそも何のために憲法典…を作って国家権力を制御しようとするのか、それを説明する視点である。」
「そもそも、なぜ立憲主義という考え方が生まれたのか。それを探っていくと、戦争と平和の問題に行き着く。さまざまな考え方を持つ人が平和に共存して社会生活を営む基本的枠組みとして何が必要なのか、その問題へと行き着く。立憲主義という考え方をつきつめたとき、そこからは、憲法九条の理解について、日本の平和をいかに守るべきかについて、一定の方向性が導かれる。」(p8−9)

 本書では、立憲主義について検討する前に、そもそもなぜ民主主義なのかについて検討されています。この問いに対する答えは何通りか考えられるわけですが、最低限いえることは、民主主義が果たしているのは、人々の意見が対立する問題、しかも社会全体として統一した決定が要求される問題について、結論を出すという役割です。
 しかし、仮に民主主義が様々な形で正当化できるとしても、民主主義で決められることには限界があります。長谷部教授は次のように述べています。

「…民主主義が良好に機能する条件の一つは、民主主義が適切に答えを出しうる問題に、民主主義の決定できることがらが限定されていることである。釘を打つのに花瓶を使うべきでないように、ネジを回すのに爪先を使うべきでないように、民主主義を使うべきでない場面がある。この世の中には、社会全体としての統一した答えを多数決で出すべき問題と、そうでない問題があるというわけである。答えを先取りしていえば、その境界を線引きし、民主主義がそれを踏み越えないように境界線を警備するのが、立憲主義の眼目である。」(p41)

 こうして、民主主義と立憲主義の関係が見えてくるわけです。イェール大学のロバート・ダール教授に言わせれば、民主政治は「瑣末事」のみかかわるものなのだそうですが、つまるところ、民主主義は決してすべての事柄を決定するのに優れた方法というわけではないということなのです。

 では、なぜ民主主義では決定すべきでない問題がこの世に起こるのか。この点に関して長谷部教授は「比較不能な価値の共存」という考え方を持ち出されます。つまり、価値観は一つではなく、それらが両立しないというだけでなく、

「異なる価値観は、比較不能でさえある。」(p54)

というわけです。

 にもかかわらず、我々は異なる価値観を持つ人々が集まって社会を形成しなければならないわけです。そういう中で、血みどろの争いを続けるのではなく、平和的な社会を築き、人間らしい社会生活を送るためには、どうしたらよいか。その答えが、公と私の人為的区分です。

「人々の抱く価値観が根底的なレベルで対立しており、しかも、各人が自分の奉ずる価値観を心底大切だと考えているような状況で、人々が平和に社会生活を送ることのできるような枠組みを作ろうとすれば、まず、人々の抱く価値観の対立が社会生活の枠組みを設定する政治の舞台に入り込まないようにする必要がある。公と私の区分、より狭くいえば、政治と宗教との区分が、こうして要請される。」(p59)

 例えば、人権の保障のようなものは、正にこうして守られているわけです。

 さて、長谷部教授は、こと防衛問題に関しては、民主的政治過程の欠陥はあまりにも大きく、適切な結論が得られる蓋然性は高くないという見方も充分に成り立つとします。つまり、国内の政治過程が非合理的な決定を行う危険が高いというわけです。
こうした中では、政治的多数派によっては容易に動かし得ない政策決定の枠を決定し、そのことを対外的にも表明することが合理的な対処の方法ともいえるわけです。

 長谷部教授は、憲法第9条による軍備の制限も、このような合理的な自己拘束の一種と見ることが可能だとします。

 長谷部教授は、ここでオデュッセウスの寓話を例に挙げて説明しています。

トロイアでの戦いを終えた英雄オデュッセウスは、魔女セイレンの美しい歌声に惑わされることなく、故国イタケーへの船旅をつづけるため、部下たちの耳を蜜蝋でふさいだうえで、部下に命じて自分を帆柱に縛りつけさせ、しかも、万一自分が縄を解いてくれと合図でもしたら、ますます一層強く締め上げるようにと命ずる。こうすることで、オデュッセウスはセイレンの歌声を楽しみつつも、それに惑わされることもなく無事に旅をつづけることができた。
 民主主義国家にとって憲法が持つ合理的自己拘束としての意味は、このオデュッセウスの寓話にわかりやすく示されている。日本国憲法第九条も、こうした意味を持つと考えることができる。「国際社会への協力」や「自国の領土の保持」などという美しい歌声に惑わされることなく、日本の国民が将来へ向けて、安全な航海をつづけていくことができるか否かが、そこにかかっている。」(p155−156)

 この説明には、いつもながら大変な感銘を受けます。

 こうした前提に立ち、長谷部教授は、

「穏健な平和主義の持つ意味をなお真剣に受けとめるべき理由がある。」(p171)

と述べています。

 「穏健な平和主義」とは、

「各国が自衛のための何らかの実力組織を保持することを完全には否定しない選択肢」(p160)

です。

 そして、長谷部教授は、憲法九条の下で個別的自衛権は認められるが、集団的自衛権は認められないとする政府の憲法解釈について、次のように述べています。

国連憲章によって認められている権利を、自国の憲法で否定するのは背理だといわれることがあるが、もちろんこれは背理ではない。アイスクリームを食べる権利は誰にでもあるが、自分は健康のことを考えて食べないことにするというのが背理でないのと同様である。」(p162)

 また、憲法第九条の文言自体からは集団的自衛権が否定されているという解釈は一義的には出てこないとの批判に対しては、次のように述べておられます。

「…いったん有権解釈によって設定された基準については、憲法の文言には格別の根拠がないとしても、なおそれを守るべき理由がある。いったん譲歩を始めると、そもそも憲法の文言に格別の根拠がない以上、踏みとどまるべき適切な地点はどこにもないからである。同じ状況は、憲法第九条の下で守られるべき具体的な制約を設定する場合にも妥当するであろう。
 ときに、憲法第九条から導かれるとされるさまざまな制約が、「不自然」で「神学的」であるとか、「常識」では理解しにくいなどといわれることがあるが、こうした批判は全く的がはずれている。合理的な自己拘束という観点からすれば、ともかくどこかに線が引かれていることが重要なのであり、この問題に関する議論の「伝統」をよく承知しない人たちから見て、その「伝統」の意味がよくわからないかどうかは関係がない。」(p163)

 民主主義から立憲主義、そして憲法九条へとつながっていく長谷部教授の議論の展開には、いつもながら脱帽です。

 憲法学者がなかなか九条について積極的に論じようとしないことは周知のとおりです。確かに、九条に関する見解を述べれば、その人の政治的立ち位置が決められてしまうような時代も長らくあったわけで、その気持ちも分からないのではないのですが、長谷部教授のような形での議論は、従来のイデオロギー対立からも超越した立論であり、こうした議論が憲法学者の中から出てきて深まっていくことは、これから改憲の議論が深まっていく上で、重要なのではないかと思います。

 いずれにしても、憲法に関心のある人にとってこの本が必読書であることは間違いありません。