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イスラムに対する誤解

 かつてマックス・ウェーバーは、近代化を「呪術からの解放」の過程として捉えたわけですが、昨今の世界情勢を見ると、宗教原理に再び呪縛されつつあるようです。これはアメリカのいう「対テロ戦争」の双方の当事者であるブッシュとビン・ラディンがいずれも神の名の下にそれぞれの正統性を主張していることに象徴されています。いくらブッシュが否定したところで、アフガンやイラクにおける戦争が宗教的な側面を持っていることは否定できないでしょう。

 こうした時代にあってこそ、宗教指導者は慎重な対応をとらなければならないはずですが、昨年9月、ローマ法王ベネディクト16世が、訪問中の母国ドイツでイスラム教の聖戦(ジハード)について批判的な発言をしたことが大きな波紋を呼びました。

 まず、実際の法王の発言について見てみましょう。

 クーリー教授の版の第七対話(ディアレクシス)で、皇帝は「ジハード(聖戦)」というテーマに言及します。皇帝はコーラン第2章(スーラ)256節に次のように書かれているのを間違いなく知っていました。「宗教にむり強いがあってはならない」(『コーラン?』藤本勝次・伴康哉・池田修訳、中央公論新社、2002年、49頁)。一部の専門家がいうところによると、おそらくこれはムハンマドがまだ力をもたず、迫害されていた、初期の時代のスーラの一つです。しかし皇帝はもちろん、その後展開して、コーランの中に記された、聖戦に関する教えのことも知っていました。

 「啓典の民」と「不信心者」に対する扱いの違いといった、詳細な事柄に立ち入ることなく、皇帝は対話の相手に向かって、驚くべきぶしつけさをもって、わたしたちが受け入れがたいぶしつけさをもって、宗教と暴力一般の関係に関する中心的な問いを発します。皇帝はいいます。「ムハンマドが新しいこととしてもたらしたものをわたしに示してください。あなたはそこに悪と非人間性しか見いだすことができません。たとえば、ムハンマドが、自分の説いた信仰を剣によって広めよと命じたことです」。

 皇帝は、これほど強い調子のことばを述べてから、信仰を暴力によって広めることがなぜ不合理なことであるかを、続けて説明します。暴力は神の本性と魂の本性に反します。皇帝はいいます。「神は血を喜びませんし、理性に従う(シュン・ロゴイ)ことなしに行動することは神の本性に反します。信仰は魂から生まれるものであって、肉体から生まれるものではありません。誰かを信仰に導きたいなら、必要とされるのは、上手に語り、正しく考える能力であって、暴力や脅しではありません。・・・・理性を備えた魂を説得するために、腕力も、いかなる武器も、死をもって人を脅すその他の手段も必要ではありません・・・・」。

http://cbcj.or.jp/jpn/feature/newpope/bene_message143.htm

 その後、教皇庁は、

・・・教皇は、「ジハード(聖戦)」に関する、また「ジハード」についてのイスラームの思想に関する包括的な研究を行うことを意図しておらず、いわんや、イスラーム教徒の心情を害することを意図していたのでもない。

http://cbcj.or.jp/jpn/news/bene_islam1%20.htm
と弁明していますが、イスラムの在り方を批判していると言われても仕方のない内容といえるでしょう。つい先頃も、デンマークの新聞がイスラム教の創始者ムハンマドの風刺漫画を掲載したことがイスラム教徒の反発を買ったばかりですが、今日のように宗教の力が復活してきている時代にあってこそ、宗教指導者はそれが闘争へと向かわないように指導しなければならないはずであり、キリスト教という一大宗教の指導者がこうした発言をしてしまったことは、大変残念でなりません。

 イスラム社会の1つのアイデンティティは、西洋文明に対する頑なな抵抗に象徴されているといえるでしょう。キリスト教徒とイスラム教は同じユダヤ教を根源としており、同じく一神教であるにもかかわらず、それぞれの文明が今日置かれた立場は、あまりにも対照的です。なぜ、こうした状況がもたらされてしまったのでしょうか?

 この点を探るのに有用なのは、中沢新一教授が書かれた『緑の資本論』です。

緑の資本論

緑の資本論

 この本は、9・11を目の当たりにした中沢氏が

イスラームに対する偏見や無知への憤り」(p10)

に駆り立てられて書かれた本です。そもそも一神教というのは、自己増殖を行うものに対して警戒的です。旧約聖書においては、黄金で作った子牛像のまわりで飲み食いし、歌い、輪舞して祭りを行っていたユダヤの民に対して、シナイ山から下りてきたモーセが憤るという話がありますが、この話には、黄金の子牛の持つ貨幣論的な本質に対する一神教の拒絶反応が現れていると中沢氏は主張されています。だからこそ、貨幣の自己増殖を意味する「利子」に対して一神教は警戒的なわけです。

 その後、キリスト教にあっては利子が認められたわけですが、イスラム教は利子を頑なに否定します。イスラム銀行が融資に対する「利子」ではなく、事業への投資に対する「利潤」とするスキームに基づいて運営されていることはよく知られています。

 こうしたイスラム教のやり方は、現代の資本主義になじまないことは明らかでしょう。しかし、これは少し考えてみれば明らかなことで、ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で論証したように、現代の資本主義はキリスト教の精神の中から生まれてきたものであるからです。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

 イスラム教というのは、原則として聖と俗を区別しない宗教であり、『コーラン』がイスラムの生活のすべてを規定しています。西洋近代の大前提は聖と俗の区別なわけですから、こうしたイスラム教の在り方は、当然、西洋的価値観にはなじまないわけです。

 そして、イスラムの生活を規定するのが、『コーラン』の解釈から導き出されたイスラム法です。『コーラン』を様々な解釈できれば、イスラム法を現代資本主義に適合させることもできるのかもしれません。ところが、9世紀の中頃には、法律に関する限り聖典解釈は禁止されたのだそうです。この点については、井筒俊彦氏がイスラム文化に関する名著『イスラーム文化 その根柢にあるもの』の中で述べておられますが、

「人間生活に関するあらゆる重要な問題はもう出尽くしてしまったし、それに対する法的解決も完全についてしまった。もはや議論の余地はまったくない。だからもうこれからは個人が自分勝手に独立に『コーラン』や「ハーディス」を解釈して、法的判断を下すことはいけない。すべて昔の権威者が解釈してくれたとおりに、それに従って判断すべきである」

ということになっているわけです。

イスラーム文化−その根柢にあるもの (岩波文庫)

イスラーム文化−その根柢にあるもの (岩波文庫)

 この点について、井筒氏は次のように述べておられます。

「…昔のままのイスラーム法ではどうしても現代社会ではやっていけないと信じる人々は、イスラーム法を潔く見捨てまして…西欧主義者になる、そして西洋の近代法で生きていくほかはありません。これはいまの現代イスラームの抱えている大きな問題の一つであります。」(岩波文庫p165)

 この本の基になる講義は1981年に行われたものですが、それにしてもこの井筒氏の指摘は今日のイスラム社会にも当てはまる問題といってもよいでしょう。

 もう1つ重要な点は、イスラム教の労働に対する考え方です。この点に関して、イスラム教における「労働の直接性」を強調するのが、優れた哲学者であり労働についての哲学的な考察をされてこられている今村仁司教授です。今村氏はサドル『イスラーム経済論』の解説「イスラーム経済思想の社会哲学的考察」の中で、次のように述べておられます。

「そしてイスラーム的宗教=法の観念の内で、おそらく最も重要な観念は、「直接性」であろう。…宗教、法、経済の中で、「直接性」の概念は常に優位に立つ。人間と自然、人間と人間、人間と神、これら三つの連関を特色づけるのも、「直接性」である。直接的関係が、人、自然、神を根本的に律しているのである。これがイスラーム的特性であると言うべきではないのか。」

イスラーム経済論

イスラーム経済論

 イスラム社会における労働も、この「直接性」に基底されているというのが、今村氏の主張です。西洋のブルジョア的資本理論は、直接に労働する者も、間接に労働する者も、富への所有権を請求できるのに対し、イスラム社会では、直接に労働した者のみが富への所有権を請求できる、ここにイスラム社会における労働の特色があるというわけです。こうした「直接性」が、今日の金融中心の資本主義になじむものではないことは明らかでしょう。

 要するに、イスラム社会というのは、全世界がキリスト教的資本主義に覆い尽くされていく中で、従前の思想や暮らしを頑なに守り続けている社会なのです。だからこそ、近代的な工場で働く従業員であっても、敬虔なイスラム教徒であれば1日に数度は必ずメッカの方角に向かって礼拝をするのです。その光景が欧米の価値観から見ればいかにも滑稽であることは当然なのです。

 かつて、ネオコンと言われる人々は、アラブ世界に欧米型の民主主義を根付かせようと躍起になっていますが、欧米の価値観でアラブ社会を見て、自らの価値観を押しつけようとすることは、生活のすべてを『コーラン』やイスラム法に依拠する社会を否定することでもあるでしょう。

 むしろ、西洋の資本主義にどっぷりつかっている日本社会から見ると、イスラムの思想から学ぶべき点もあります。この点は、片倉もとこ氏の『イスラームの日常社会』から学ぶべき点が多いのですが、例えば、片倉氏は次のような点を指摘されています。イスラム世界の人々の生活は三つのワクト(とき、時間)に分けられ、それは第1に、仕事をする時間、労働の時間である「ジョグル」、第2に、遊びの時間である「ラアブ」、そして第3に休息、安息に当たる「ラーハ」です。彼らは、労働の時間である「ジョグル」を重視しません。それは、労働は神からの呪いであるからです。また、彼らは遊びの時間である「ラアブ」も重視しません。彼らが重視するのは「ラーハ」なのです。
 「ラーハ」の例として片倉氏が挙げられているのは、

「家族とともにすごすこと、人を訪問すること、友人とおしゃべりすること、神に祈りをささげること、眠ること、旅をすること、知識をうること、詩をうたいあげること、瞑想すること、ぼんやりすること、ねころがることなど」(岩波新書p185)

です。
 我々から見ると怠けているように見える「ごろんとすること」や「ぼんやりすること」が、イスラム世界においては「ラーハ」として立派に市民権を得ているというわけです。

イスラームの日常世界 (岩波新書)

イスラームの日常世界 (岩波新書)

 西洋の資本主義のスタイルにどっぷり浸かり、物質的には豊かかもしれない反面、日々あくせくと働かなければならない我々の社会と、「ラーハ」の時の中でのんびりとした生活を送ることが認められているイスラム社会とを比べて、どちらの社会が優れているのは、正直、即断することは困難でしょう。

 そもそも、異なる文化を比較して優劣を付けることなど不可能なのです。しかも、我々はそれぞれの文化が単に異なるというだけではなく、他の文化を理解し、共感しなければならないわけです。この点は哲学者であるI・バーリンが「理想の追求」の中で強調している点です。バーリンは、「私はコーヒーが好き、あなたはシャンペーンが好き、二人の好みは違っており、それだけのことだ。」というだけでは、「文化相対主義」であるけれども、そうではなく「多元主義」を主張しています。バーリンの考える多元主義とは、次のようなものです。

「それは、人の求める目的は数多く、かつ多様であるが、人々はそれぞれ充分に合理的でかつ人間的であり、お互いに理解し共感し学び合うことができるという考え方である。」(『理想の追求』バーリン選集4p15)

理想の追求 (バーリン選集 4)

理想の追求 (バーリン選集 4)

 今の欧米諸国に、バーリンのいうような他の文化を理解し共感しようという姿勢が果たしてあるでしょうか?

 今日のキリスト世界とイスラム世界の生活を比較すれば、前者が後者を凌駕していることは一目瞭然でしょう。こういう状況にあるからこそ、キリスト世界はイスラム世界を理解しようとしなければいけないのではないかと思います。もちろん、逆も真なりですが、まずは圧倒的優位な状況に立つキリスト世界の側からのイスラム世界に対する眼差しを変えていかないといけないのではないかと思います。

 ところが、9・11後のアメリカのとったやり方は、全イスラム社会を敵に回すようなものでした。しかも、結局出てこなかった大量破壊兵器を口実として、イスラム社会の領域を占領し、見事に傀儡政権を打ち立ててしまったわけです。このことが、ただでさえ劣勢な立場にあったイスラムの人々の心をどれだけ傷つけてしまったでしょうか?その深さは測りしれません。少なくとも言えることは、今回のアメリカの行動によって、テロ以前よりもテロの芽を多く育んでしまったということでしょう。

 前ローマ法王ヨハネ・パウロ二世は、シリアのダマスカスを訪れた際にモスクを訪問されたとのことです。現法王もその後昨年末にトルコのブルーモスクを訪問されたとのことですが、これは宗教間の対立を融和する意味においては大変評価すべきことだと思われます。

 宗教指導者に必要な素養は、正に他の宗教に対する理解という点に尽きるように思われます。