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司馬遼太郎「坂の上の雲」

坂の上の雲〈1〉 (文春文庫)

坂の上の雲〈1〉 (文春文庫)

 この本ほど、日本人のナショナリズムをくすぐる作品はないのではないかと思います。

 私も、随分前に一気に通読しましたが、今よりは年が若かったせいもあり、目頭が熱くなったのを覚えています。

 本書は、日露戦争で活躍した秋山兄弟(好古、真之)と俳諧に新風を巻き込んだ正岡子規の伊予藩出身3人の生涯を通じて、ようやく国家としての体をなしてきた我が国における日露戦争前後の日本人の生き方、感性を鮮やかに描いた物語です。

 以下、物語のあらすじを振り返ってみたいと思います。

 3人はそれぞれ伊予藩では優秀な少年であり、秋山好古は上京して士官学校に入り、我が国の騎兵隊の基盤を構築し、日露戦争奉天会戦で屈強なコサック騎兵と互角以上の戦いをします。

 秋山真之も同じく上京し、海軍学校に入り、ドイツの名将メッケルにドイツ式の海軍技術を学び、日露戦争日本海海戦において、圧倒的に勢力の上回るロシアのバルチック艦隊に対して、海戦史上まれにみる圧勝をおさめます。

 正岡子規は、この長い小説の始めの方にだけ登場するのですが、病弱な体を酷使して、文壇において俳句に新風を吹き込み続けました。

 我が国は、明治維新後、欧米諸国に追いつくために、近代国家建設に向けて邁進していきました。江戸時代の我が国は藩の連合体に過ぎず、人々は「藩」を意識することはあっても「国」を意識するということはありませんでした。明治維新後も薩長による藩閥政治が依然として続けられてはいましたが、明治政府を担う人々は不平等条約を解消して、日本という国をいかに国際舞台において一人前の国家とするかを必死に追求していたのでした。

 明治政府が国際社会の仲間入りをするきっかけとなったのが日清戦争です。日清戦争は、清というモンゴル民族が漢民族を治めている国家にあって、兵士の志気が低かったこともあって、我が国は勝利を収めることができました。しかしながら、日清戦争直後に、独仏露による三国干渉が行われ、我が国が手放すこととなった遼東半島をロシアがあっさりと奪ってしまったことで、もはや、日露間の戦争は避けて通れないという見方が我が国の大勢を占めるようになります。ロシアは、以前からシベリアの毛皮欲しさから東進への欲望を強く持ち続けてきていましたが、日露戦争の頃には、不凍港を求めて、極東、特に朝鮮半島に対して強い欲望を持ち続けていました。当時、ロシアが朝鮮半島を奪えば、我が国の安全保障にとって大変な脅威となるばかりでなく、我が国の対馬佐世保を求めることは目に見えており、ひいては日本という国家の危機につながったわけです。そこで、我が国としては、どうしても朝鮮半島をロシアに奪われることを阻止する必要があったわけです。

 こうして、日清戦争から日露戦争までの10年間は、来るべき日露戦争に向けて、国民の窮乏を強いながら、我が国のわずかな財政資源を海軍の増強につぎ込み、ロシアの艦隊に対抗しうる海軍を構築したのです。この海軍の構築に実質的に当たったのが秋山真之でした。

 一方のロシアは、当時、日本との戦争をするつもりはありませんでした。当時のロシアはニコライ皇帝による専制政治が行われており、皇帝自身が日本と戦争するつもりがない限り、ロシアが戦争することはあり得ませんでした。ところで、日露戦争は、一面では、立憲政治対専制政治という構図でとらえることができます。すなわち、祖国防衛戦争として戦った日本と皇帝のための戦争という違いがあり、これが結局勝敗の分かれ目にもつながったのです。アメリカのルーズベルト大統領は、当初より、ロシアは専制政治であるが故に負けることを予想していたくらいでした。

 さて、日本海軍の総司令官東郷平八郎です。東郷は、日露戦争前は閑職にいたのですが、開戦が間近に迫ると、海軍大臣であった山本権兵衛は東郷を急遽海軍総司令官に就けます。そして、秋山真之は参謀として、艦隊の作戦立案の中枢に就いたのでした。

 東郷艦隊は、まず、ロシアの極東の艦隊である旅順艦隊と対戦することになります。旅順は遼東半島の先端部に位置し、以前は清の軍港だったところに、ロシアが強固な要塞を築いていました。当時ロシアには大きく2つの艦隊があり、1つはこの旅順艦隊、もう1つはバルト海を拠点とするバルチック艦隊です。日露戦争の遂行には、満州に兵力や物資を輸送を確保するため、日本海の制海権を握ることが必要不可欠です。そのためには、我が国の海軍は旅順艦隊を全滅させなければなりませんでした。その一部でも残っていれば、日本海をロシアの軍艦が動き回り、我が国の輸送船を攻撃するからです。
 しかしながら、我が国の艦隊のすべきことは旅順艦隊を全滅させるにとどまらず、はるかロシアの西方に拠点を置くバルチック艦隊をも視野に入れる必要がありました。ロシアはバルチック艦隊を極東に派遣し、旅順艦隊と合わせた巨大な勢力で我が国の艦隊に当たろうとしていたのです。このため、バルチック艦隊が極東に到着するまでの間に、被害を最小限に抑えつつ旅順艦隊を全滅させ、その後やってくるバルチック艦隊も全滅させるという途方もない使命が我が国の艦隊には課されていたのです。

 一方、ロシアの旅順艦隊は、バルチック艦隊が到着すれば、圧倒的な勢力で日本海軍に当たれるため、旅順港に停泊してバルチック艦隊を待っていればよかったのです。こうして旅順港に停泊している旅順艦隊の封鎖が始まりました。旅順艦隊はマカロフという大変優秀で人望の厚い司令官を擁していましたが、日本海軍が敷設した水雷に辺り死亡しました。その後、ロシア本国からの指令により、艦隊は旅順を出てウラジオストックに向かうことになり、そこで黄海開戦が始まりました。この開戦の勝利は日本にとっては正に奇跡的でした。ロシアとしては、ウラジオストックに滑り込めば、バルチック艦隊の到着までそこにとどまれることから、東郷艦隊を沈めることよりも、何としてもウラジオストックに逃げ込もうとしており、東郷艦隊がそれを追っかけるといった形になりました。そんな中、東郷艦隊が打った砲弾の1発が敵の旗艦司令部に命中し、司令官ともども吹っ飛ばしたのです。さらに、この砲弾で死亡した者が艦隊の舵にもたれたため大きく左に旋回を始め、これが艦隊の秩序を大きく乱し、東郷艦隊が猛攻撃をかけたのです。その結果、旅順艦隊はバラバラに散らばることとなりましたが、その一部が旅順港に逃げ込んだため、東郷艦隊は引き続き旅順港の封鎖を継続しなければならなくなります。

 東郷艦隊にはバルチック艦隊が到着するまでに旅順艦隊を全滅させるという使命が課されており、旅順港において膠着状態が続けば、東郷艦隊が全滅の危機にさらされてしまいます。 そこで、日本海軍は、この旅順港にいるロシアの軍艦を陸上から攻撃するよう、陸軍に要請したのでした。大陸に上陸した陸軍は、本来、全軍が満州においてロシアの主力と対戦するはずだったのですが、旅順港における膠着状況を打開するために、乃木希典司令官とする師団を派遣したのですが、この乃木希典の戦術のまずさが旅順における日本軍の膨大な損失につながります。旅順要塞には、旅順港を見下ろせる203高地という高台があり、日本軍としては、まずここを抑え、そこから旅順港の軍艦を攻撃すべきであることは誰の目に見ても明らかでした。しかしながら、乃木軍司令部の参謀長だった伊地知大佐は、あくまで要塞を正面から攻め込むことにこだわったため、旅順のロシア軍を攻めあぐね、かつ、日本兵士に膨大な犠牲をもたらすことになったのです。海軍は、乃木軍に対して再三にわたって203高地を奪うよう忠告をしたのですが、乃木と伊地知は陸軍のことは陸軍が決めるといってかたくなに相手にしませんでした。

 こうした状況を見かね、当時満州総司令部の総参謀長でロシアの主力と対戦していた児玉源太郎は、旧知の乃木のところへ赴き、乃木の面目を保ちつつ、作戦の変更を指示し、203高地をようやく抑え、旅順に残っている艦隊を全滅させ、ロシア陸軍を降伏させます。乃木は、後世において名将として讃えられていることは周知のとおりです。

 さて、旅順に残っていたロシアの軍艦が全滅したことで、東郷艦隊は日本に戻って船体の整備を行い、来るべきバルチック艦隊との対戦に備えることになりました。バルチック艦隊ロジェストウェンスキーというロシア皇帝の側近が率いていました。バルチック艦隊の大航海は大変悲惨なものでした。当時日本と同盟を結んでいた英国が航海をしばしば妨害し、ロシアと同盟を結んでいるフランスにあっても、ロシアが劣性と判断すると、フランス領の港への艦隊の寄港を認めませんでした。このため、艦隊は、燃料の石炭の補給すら満足にできなかったのです。
 さらに、ロジェストウェンスキー東郷平八郎とは対照的に大変神経質な性格で、常に日本の掃海艇がいつバルチック艦隊を攻撃してくるか冷や冷やしていました。さらに、バルチック艦隊をさらに補強しようとしたロシア本国が、時代遅れの艦隊を急遽編成しバルチック艦隊に合流させたため、バルチック艦隊は途中2ヶ月も足止めを食らうことになり、兵士の士気も大きく低下していたのでした。

 バルチック艦隊がこの大航海を行っている間に、旅順は陥落したことから、これまで旅順に釘付けになっていた乃木軍はようやく満州の主力に合流することができました。満州におけるロシア陸軍の総司令官はクロパトキンでした。このクロパトキンは日本軍に比べてはるかに大きな兵力を擁しながら、異常とも言える消極さを持っており、これが原因で、結局日本軍に実質的に敗北する結果となります。日露の主力決戦は奉天において行われました。クロパトキンは、旅順から合流した乃木軍の動向を異常に気にかけていました。また、日本軍の中央部の背後には予備軍が控えているものと誤解をし、これを極度に警戒していたのです。

 奉天会戦においては、日本軍は、その左翼に秋山騎兵隊とともに乃木軍を配し、満州奥深くまで攻め込ませ、中央部との間でロシア軍を包囲する作戦をとりました。ところが、クロパトキンは、乃木軍が右翼から攻めてきたと勘違いし、兵力を大幅にこれに向け、その後、乃木軍が左翼から攻めてきたことに気がつき、兵力を逆に展開させたのです。これによって、ロシア軍は大きく混乱しました。さらに、日本軍右翼における攻防においても、ロシア軍は十分な余力を残しつつ戦いを進めていたのですが、クロパトキンは何を思ったのか、一旦兵を引き上げ、体制を立て直してから再び会戦に臨むことを決断したのです。士気高く攻め込んでいたロシア前線は、この決定を理解できず、結局、ロシア軍は、大きく乱れながらの退却を余儀なくされ、あたかも敗戦の様相を呈してしまったのでした。

 結局、奉天会戦は日本の勝利ということになったわけですが、そうなると、残すは、東郷艦隊とバルチック艦隊との決戦のみということになります。東郷艦隊の参謀を務める秋山真之がもっとも頭を悩ませたのは、バルチック艦隊対馬海洋を回るか、太平洋を回るかという点でした。バルチック艦隊は、できることなら、無傷のままウラジオストック港に入港することを臨んでいました。なぜなら、ウラジオストック港に艦隊を温存できれば、日本海の制海権を依然として脅かすことができるからです。一方の東郷艦隊は、バルチック艦隊を全滅することが至上命題だったわけですが、もしルートの予想をはずせば、ロシア艦隊を取り逃がしてしまいかねませんでした。

 バルチック艦隊は、結局、秋山真之らの予想通り、対馬海峡ルートをとりました。バルチック艦隊の到着を日本で最初に発見されたのは宮古島でした。宮古島では、バルチック艦隊の発見という国家の命運に関わる情報をとにかく本土に伝えなければならないと考え、小さな丸太船により、通信施設のある石垣島まで決死の危険な航海を試みたのでした。結果的には、直後に日本海軍にバルチック艦隊の目撃情報が続々よせられたため、この行動が直接意味を持つことはありませんでした。

 さて、バルチック艦隊がいよいよ東郷艦隊の前に姿を現します。東郷艦隊は縦に一列に並んで隊をなすのが基本的な陣形です。東郷艦隊は縦列をなしてバルチック艦隊に迫っていきました。ここで東郷艦隊は、敵の前で次々と旋回するという海戦の常識を破る動きをとったのです。船は旋回すると当然その間動きが止まるので、敵は照準を定めやすくなります。しかし、東郷はあえてそうした行動をとり、軍艦の側面に付いている砲弾を目一杯使用できるようにし、それをバルチック艦隊の旗艦に向けて一斉に攻撃したのです。その結果、ロジェストウェンスキーは重傷を負いました。ロジェストウェンスキーは、別の小さな船に移り、ウラジオストックまで逃げようとしましたが、途中で日本軍に捕らえられ、佐世保へと運ばれたのでした。その後、ロシア軍は全滅し、ついに降伏したのです。

 海戦史上、これほどの圧勝は未だかつてありませんでした。これが日本の勝利を決定的にしたのです。

 日露戦争における日本の勝因は、日露戦争は我が国にとっては祖国防衛の戦争であったのに対し、遠く離れた地である極東の侵略目的の戦争とは兵士の士気も違っていたという点です。奉天の会戦では、クロパトキンは皇帝の方ばかり見ており、勇敢に戦うよりも、戦争が終わって本国に戻った時に、いかに皇帝から評価を受けるかといった点に気が向いていたのです。これに対して、我が国にとっては、日露戦争に負ければ、明治維新以来ようやく一人前の国家となった我が国がロシアの属国となってしまうことは目に見えており、兵士も勇敢に戦ったのでした。

 また、当時の我が国の外交も光っていました。当時の日本の財政状況にかんがみれば、日露戦争全体を通して日本が圧勝するということはまずあり得なかったため、せいぜい6対4で優勢な折りに外交で勝利に持ち込もうとしたのでした。このため、日本は、アメリカ大統領のルーズベルトに早い時期から接触し、なんとかアメリカに仲裁してもらおうとしたのでした。

 さらに、陸軍の明石大佐は、巨額な資金を持ってロシアの革命家と接触し、革命を扇動し、ロシア本国の国内基盤の弱体化を図ったのでした。これは、日露戦争の勝敗に相当大きな影響を与えたようです。事実、日露戦争に従軍したロシアの兵士たちも、本国における革命の動きが相当気になっていたようです。

 このように見てくると、日露戦争というのは、正に我が国の祖国防衛戦であり、日露戦争時の外交は、日本の歴史上もっともうまくいった事例の1つであるといえます。ところが、日露戦争後、我が国は、軍事大国への道をひた走ってしまう結果となります。日露戦争における軍人の活躍が、国民の軍人へのあこがれを増幅したとともに、我が国の軍隊は、天皇統帥権の名の下に、日本政府の全くコントロールの利かない存在と化し、関東軍が暴走して第二次世界大戦へと突入してしまったのでした。日露戦争時の軍事と外交の絶妙のコンビネーションはもはや見られなくなります。


 以上がこの本のあらすじです(細部において多少の誤解等があるかもしれませんが・・)。

 これが司馬遼太郎歴史観に基づくものであることはいうまでもありません。私は、日露戦争についての司馬史観には基本的にあまり違和感は感じません。明治維新以後の近代化の集大成が日露戦争の勝利であったと思いますし、日露戦争は我が国が第2次世界大戦に突入していく1つのターニングポイントであったのではないかと思います。

 したがって、多くの日本人がこの作品を読んで、社会全体の上昇気運を育んだことに対しては、大変共感します。

 ただ、近代が成熟した段階にある現代日本社会においては、この作品がかつての時代ほどには日本人の心に強く響かなくなっていることも認めざるを得ないのではないかと思います。

 いずれにしても、この作品は、多くの日本人にとって、1度はくぐらなければならない門のようなものなのだと思います。